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「浄土」について①

そもそも「浄土」って?

「浄土」と聞くと、何となく死後の世界のようなものを思い浮かべますが、実際よく分からない言葉です。
以下、その意味について自分なりに考えてみたいと思います。


「浄土」と「穢土」 (正反対の世界)

 浄土とは文字どおり汚れの一切ない清浄なる世界、という意味です。対するこの娑婆世界(現象界)は、"穢土"と言われるように不浄の世界です。
 「無常・苦・無我・不浄」というのが娑婆世界(現象界)の性質であるのに対して、浄土は娑婆世界とはまったく逆の「常・楽・我・浄」がその性質です。
 「常」とは永遠(不生不滅)のことであり、「楽」とは相対的な苦楽ではない絶対的な「楽」(極楽)のことであり、「我」とは有限な個ではなく絶対的な自己のことであり、「浄」とは煩悩の完全に滅尽した状態、つまり涅槃のことです。
 
 二つの世界は完全に反転したあり方をしています。何から何まで正反対です。このまるで正反対な二つの世界は何を表しているのでしょうか?

「東方」と「西方」 (逆対応の関係)

 娑婆世界(現象界)は東方にあるのに対し、阿弥陀仏の浄土は西方にあるとされます。仏教には十方世界にそれぞれ仏がいるという独特な世界観がありますが、ここでの「東方」と「西方」とは、空間的な方位(東西南北)のことではなく、「逆対応」の関係を表したものとして捉えることができます。「逆対応」とは西田幾多郎の哲学用語ですが、意味は以下になります。

「逆対応とは、絶対と相対、無限と有限、一と多のように、まったく対立するもの、方向を逆にするものが、そのように対立しながら、また方向を逆にしながら、しかも相互に自己否定的に対応しあっているというパラドクシカルな関係を表示する概念である。それはまったくの対極にある二つのものの、一方の働きに対して、他方の側の逆の働きが対応しているという逆説的な関係をあらわしている。」(小坂国継『西田幾多郎の思想』)

物質と反物質

 この説明を読むと、物理学における物質・反物質の関係を思い浮かべます。
 理論物理学によれば、世の中に存在するすべての物質には、まったく反対の性質を持つ「反物質」と呼ばれるものが存在するそうです。反物質はマイナスの物質のようなもので、反物質が対応する物質に出会うと対消滅を起こして共に消えてしまう(つまり純粋なエネルギーに帰る)といいます。
 宇宙の超初期では物質と反物質は同量であったため、真空(ゼロ)から対となって生まれた(対生成された)物質と反物質はすぐに対消滅し、またゼロに帰ります。ですが宇宙創造のある時点で、その対称性が破れ、対消滅を逃れたわずかな物質が残されます。そのわずかな物質によって構成されたのが、この物質的宇宙であるそうです。
 ということは、対消滅を逃れた同じ量の反物質が"どこか"にあるはずですが、それはまだよく分かっていないようです。

アダムとイブ、そしてキリストの救い

 この「対消滅を逃れたわずかな物質」というのは、聖書の「創世記」における楽園を追われたアダムとイブにどこか似ています。純粋なゼロエネルギー世界(楽園)から分離した「アダムとイブ」という物質はこの物質世界をつくりました。それは流転し続ける無常の世界、生老病死する苦の世界です。しかし、それに逆対応するかたちで救いはもたらされます。それが反物質としての「キリスト」です(キリストは肉体的な物質性を超越した存在です)。
 宇宙初期の対消滅を逃れた「アダムとイブ」という物質は今現在の「私」にそのままつながっています。逆対応の論理でいうならば、無常の物質世界で苦しむ「私」を逆接的に救おうとする働きが同時に生じていることになります。先ほどはキリストを比喩にとりましたが、仏教的にいうならば、それが阿弥陀仏の救いです。ただそれは相互に自己否定的な逆接関係としてあるため、ただ何もしなくてもよいというのではありません。この「私」を阿弥陀仏にひたすら任せきることによって、つまり物質としての「私」(自我)を自己否定することによって、反物質としての救いが生じます。

 もちろん言うまでもないことですが、ここで言う自己否定とは自己を傷つけることとはまったく異なります。自己を傷つけるような行為はむしろ物質としての「私」への強烈なとらわれを意味します。だから苦行などは無意味です。身心を傷つけたり苦しめたりしたところで物質からの解放などありえません。自ら命を絶とうとするような行為も同じことです(それによって浄土に行けるなどというのは妄想です)。
 また宗教や道徳にありがちな自己犠牲でもありません。「利他」と称する自己犠牲はただの自己愛の裏返しであり、自己否定にはなりません。

悪人正機説

 反物質としての救いを受けるには、物質的現象としての身心(五蘊)を通して〈この生〉を生ききらなければなりません。ですから生きることに付いて回る苦しみから逃げることはできません。
 浄土仏教には有名な「悪人正機説」があります(「善人でさえ往生できるのなら悪人ならなおさら往生できる」という『歎異抄』にあるフレーズで有名です)。ここでの「悪人」とは悪い人のことではなく、苦しみをごまかさない(もしくは、ごまかそうとしてもごまかせない)人のことをいいます。だから、どうしても仏にたのむしかなくなります。対して「善人」とは、自我としての「私」(自力)によって苦しみを何とかできると思っているため、自力的な修行や世俗的なアレコレで苦しみをごまかそうとする人のことです。が、それは結局うまくいきません。というのも、苦しみというのは「私」がつくっているものだからです(その「私」が何をしたって苦しみはなくなるはずがなく、ただ形を変えていくだけです)。
 苦しみは苦しみのままに全身心を挙げて「私」もろとも仏にお任せするのが本当の意味での自己否定であり、それが「南無」(帰命)ということです。その自己否定は、"裏"から見るならば、仏としての真の自己を肯定することです。



 


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