『平和への希求』 その5

わたくしが、過去の歴史の地続き性・同一性を感じるものに、「日本人における朝鮮人に対する差別と偏見の意識」の存在があります。これは、多くの言葉を費やす必要もない事実でしょう。勿論、戦後、決して少なくない日本人の間に、朝鮮人に対して友情と好意を抱く人々もおりましたし、時代の進展とともに、特に若い世代の間で、差別感情は減少する傾向がみられるのも事実でしょう。
 しかし、たとえば、北朝鮮からのミサイルによる報復攻撃を東京が受けて多数の死傷者が出た場合、一気に、「朝鮮人になめられてたまるか。朝鮮人なんか皆殺しだ」というような感情が一挙に吹き出る危険は決して小さくないと、わたくしは懸念致しております。勿論、日本の領土が侵犯され、同胞に犠牲者が出たという事になれば、他のどこの国であっても、反感と敵意と憎悪は生じるところでしょうが、とりわけ、その相手が北朝鮮という事になれば、国家に対する敵意と同時に、朝鮮人という民族に対する反感と敵意と憎悪が、他の民族に対する以上に、大きく噴出することは、間違いないでしょう。

 わたくしが、過去の歴史の地続き性・同一性を感じる事例で、もう一つだけ指摘しておきたい事があります。
 「天皇制」の問題です。戦後は一応、象徴天皇制という事になっており、専制君主のような役割とはほど遠く、実際、権力者として振る舞うこともありません。今や、天皇の名において、戦争を始め、国民を戦争に召集することはあり得ないかにみえます。
 反天皇制を主義とするわたくしですが、昨今の天皇家の家族愛には好感を抱いております。公衆の面前で慎ましくも率直な愛情表現を憚らない天皇・皇后には、夫婦愛の絆の強さ・美しさを感じますし、天皇ファミリーは、さながら聖家族といった趣すら感じさせてくれます。
 しかしながら、そうした天皇家の家族像や人物像の美徳と、日本が戦争に関与していく際の「天皇・天皇制」の役割と意味は、また別な話だと思っております。
 たとえ天皇ご自身がそう望まれておられなくても、日本が戦争に関与する状況の中では、天皇の存在は、国民に大きな負の影響をもたらすことになるでしょう。国民が反戦平和を志向した場合、それに圧力をかける動きが活発化するでしょうが、その最大の圧力が、天皇・天皇制である事実は、こんにちも変わりがありません。実は、この場合、天皇自身が権力者として振る舞う必要はありません。また国民の側も、天皇自身を権力者として認識していなくても構わないのです。さらに言えば、天皇に対して畏怖の念を抱いていなくても、天皇・天皇制は、国民にとって、思考と意志を根底から奪う存在となり得ます。
 国民個人の或る思考と意志が、天皇・天皇制の意向とその存続・繁栄にとって支障をきたすものであると認識させられ、そういう反天皇・反天皇制の存在が、時代と状況によって、絶対に許されないこと――今尚、日本という国家・社会の絶対的な<禁忌>であること、<禁忌>とされていること――を知るに及んで、日本国民としての個人は、天皇・天皇制の前で、自らの思考と意志を斥けてしまうことになるでしょう。
 「天皇陛下のために」とか、「天皇陛下万歳」と心底から思い、叫ぶ国民など現代ではほとんどいないのではないかと、天皇・天皇制の存在の意味と役割――こんにちにおいても、<絶対的禁忌>として存在すること――を軽視することはたいへん危険です。
 しかも、わたくしは、天皇・天皇制が、戦前的な意味として機能する可能性も否定できないと考えております。
 現代の日本人、特に若い世代の日本人に顕著となってきていますが、超越者の存在を求める意識が生まれ始めています。
 近代自我の確立が、日本の場合、必ずしも対他者、対社会との関係において、あるべき形を作ることが出来ず、自我ならぬ<エゴ>の意識に偏って形成され、結局は、エゴ社会の中で、己も孤立感を深めてしまうところから、己の「エゴの代理者」としての超越者の存在を潜在的に求める結果となっています。
 これは勿論、たとえばオウム真理教の事件が起きた事実などからそう思うのではなく、既に、12年前の時点で、わたくしは、日本人における自我形成の在り方を考察していて、実感するところでした。
 いずれにしても、こんにちの日本という国の構造や実態および日本人の精神が、過去の歴史と地続きに連綿としており、その同一性を、深い層で存続させている事実に、わたくしは、大きな衝撃を受けました。

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