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消失の肯定

私は観光学を学んでいる人間なので、限界集落だったり消滅可能性都市というものとは向き合わなければならない。

「地方なんていらない、全部東京とかの大都市に集めればいい」

そんなことを言われると結構困る。もちろん教授陣らはそれぞれの分野での答えを持っているのだろうが、私はまだはっきりと見つけられていない。

なぜ町を残さなければならないのか、どういった形をとれば「残っている」といえるのだろうか。

もちろん、経済学的な見方や農学的な見方など、いくらでも理由は出てくるはずだ。しかし、私は果たしてそれが一番の理由となり得るかについて疑問を持っている。

これは賛否両論があると思うが、私は観光に携わる人間は地域ではなく住民目線でないといけないと思う。日本版DMO の仕組み作りががうまくいっていない原因は資金繰りなど複数の理由があるが、役員の多くが大手旅行代理店や航空業界からの数年の出向であるというところも少なからず影響しているという。

ともかく、私は住民目線で住んでいる町がなくなることについて考える。やはり、「寂しい」「悲しい」というのが大きいのではないか。

人は多少なりとも別れを悲しむ。知人がなくなれば、その人との思い出がよみがえり、学校を卒業すれば、学び舎での日々を懐かしむ。

これから新たな出会いが待っている。そんな風に言われて新たな一歩を踏み出すことを促される。しかし、人はすぐにはそれを受け入れられない。それは過去の記憶のほうが未来の希望よりも大きく感じられるからだ。

思い出はとても尊くとても大きい。人類は進化の過程で変化を好まなくなったので、新たなところへ行く勇気をなかなか持てない。それでも変化しなければ前に進むことができず淘汰されていくことも知っている。

問題なのは、日本の観光地は前への正しい進み方がわからないというところが多いことだと思う。かつてのマスツーリズム時代からの進み方がわからず、廃れてしまったかつての観光地も日本には数多くある。そんな町をこれからなくしていくことが観光を学ぶ者に求められているのだ。

人は結局、消失を肯定することができないのだと思う。うまく折り合いをつけて、無理やりにでも前に進むことを求められる。新たな出会いの喜びによって別れの悲しみを埋め合わせていくしかないのだろう。

問題は、これから日本は人口減少がさらに進んでいくだろうということだ。関係人口といたるところでいわれているが、定住人口がいなければそれも成り立たない。これからは5Gやsociety5.0の時代となり、新たな生活様式になっていく。現地に行かないで関係人口になるなど、多様なかかわり方が生まれるはずだ。

人口が減っていく中で定住人口を増やそうとするのは確かにナンセンスだ。いずれ町の住民全員で他の大きな町へ移住ということも普及してくるかもしれない。ただ、それは果たして町が残っているといっていいのかも難しいところだ。京都は古い町並みが人気だが、実際は建物が多く残っているだけで昔から住んでいるという人は少なくなっているらしい。未来の町の在り方というのは本当に想像がつかない。

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