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ミジカムジカ4「月がきれいですね」プログラム原稿

ミジカムジカ4「月がきれいですね~ピアノとダンスが彩る月夜の愛」
 ダンス 田中早紀
 ピアノ 古川莉紗

2019年5月26日
西宮市民会館503室

【月をめぐって】
 今回のタイトル「月がきれいですね」は、夏目漱石が英語教師をしていた時、生徒が「I love you」を「我君を愛す」と訳したのに対して、「日本人はそうは言うまい。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と言ったとされる逸話から引いています。出典は明らかではありませんが。
 同じく明治の作家・ロシア文学者の二葉亭四迷が、ラブシーンの抱擁の場面で女性が「yours(あなたのものよ)」と囁いたシーンを「死んでもいいわ」と訳したのと合わせて紹介されることも多く、明治の文豪の偉大さを表わし、さらに日本人の心性を的確に指摘しているとされる逸話です。
 月はラテン語でルーナ(luna)。英語でlunaticというと、「月のような」という意味を超え、「狂気じみた、ばかげた」という意味になります。月から発する霊気に当たると気が狂うとされたことから、「月に影響された」⇒狂気、というわけです。
 最後にお送りするデスプラのNew Moon(the Meadow)は、永遠に年を取らない美しきヴァンパイアと女子高生の恋を描いた映画『ニュームーン/トワイライト・サーガ』(2009)の主題曲です。ヴァンパイア=吸血鬼は太陽の光を嫌い、月の光を愛するとされています。
 クラシック音楽では、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番が「月光ソナタ」として知られていますが、これはベートーヴェン没後に「ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と評した詩人の言葉から生まれたもの。天国かどこかでベートーヴェンさんに会って「月光ソナタ、大好きです」と言っても、一拍置いて「みんなそう言うんだけどさ、14番の幻想曲風ソナタのことね」と言われると思います。
 日本の月の物語というと、「竹取物語(かぐや姫)」を思い出しますが、1985年に作曲家の石井眞木が「日本太鼓群と打楽器群のための交響的組曲-輝夜姫」(かぐやひめ)を作曲、1988年には世界的な振付家イジー・キリヤーン率いるネザーランド・ダンス・シアターによって、美しく大胆で現代的なダンス作品として上演されました。
 ちなみに元号「令和」の出典は、よく知られているように万葉集巻五、「初春の令(よ)き月」。酒をこよなく愛した大伴旅人(家持の父)の屋敷で正月十三日に宴会を開き、梅見をしたということです。今の暦では2月半ばごろ。宴会と言っても、鳥や蝶、山容などの景色の美しさを肴に盃を交わし、梅花の美しさをたたえて歌を詠もう、と呼びかける、誠に清廉な一節です。
 今日は印象派の音楽家と言われるドビュッシーとフォーレの「月の光」をご紹介しますが、印象派の絵画に月の光はあまり登場しないように思われます。むしろ日の光。「印象派」の名前の由来となった絵がそもそもモネの「印象・日の出」(1872年)という作品でした。
 それに先立つ1840年頃に、ねじの蓋のついたチューブ式の絵具が開発されました。バルビゾン派(ミレー、コロー)や外光派(コンスタブル、セガンティーニ)、そして印象派の画家たちは、屋外の太陽の光の中で簡単に絵画制作を行えるようになったのです。光による対象の見え方の変化を執拗なまでに描いたモネの「ルーアン大聖堂」(1890年代)連作などを思い浮かべると、印象派は太陽の光を愛した人たちであったように思われます。
 私は月を描いた画家というと、ターナー、ゴッホ、ムンク、いくつかの浮世絵(たとえば、歌川広重「名所江戸百景 猿若町 夜の景」)などを思い浮かべます。皆さんはどんな絵を思い出しますか?

【ダンスと音楽】
 人類が初めて生み出した「芸術」は、ダンスか音楽だったといわれています。同時発生だったかもしれません。狩猟、収穫、誕生、埋葬といった重要な節目には、必ず身体を動かし、声を発していたのではないでしょうか。
 今日のダンサー田中は、幼い頃からバレエを習得し、大学でモダンダンス、コンテンポラリーダンスに出会っています。バレエと後者の違いは、端的に言えば、床を転がるかどうかです。バレエが天上的存在となることを願って上昇する動きをとるのに対し、モダンやコンテは感情を吐露したり存在を確認したりするために、自我の内面に下降したり、地面を踏みしめたりする動きが多用されるので、床を転がり踏みしめる、下降の動きが顕著なのです。大学のダンスの授業、最初は床が怖かった、と言っていました。
 ダンスと音楽は、理想的にはどちらが主、どちらが従というわけではありません。ただ、どうしても聴覚より視覚のほうが情報量が多いため、視覚に訴えるダンスのほうに気を取られるかもしれません。今日はあるかどうかわかりませんが、無音で踊るという場面があったら、なかなか強い緊張感が求められます。音のないダンスというのは、孤独なものです。無音の場面に、音が入ってきた時にホッと安堵する瞬間も、なかなかステキです。
 
【ドビュッシーとフォーレ】
 ドビュッシーは、19世紀末から第一次大戦終結までの時期に活躍した近代人です。フォーレは彼より17歳年長。パリでフォーレが通っていたサロンは、女主人を中心とした香水に溢れた場所、一方ドビュッシーの時代になると世紀末の酒とタバコに満ちた場所、と雰囲気が変わったようです。
 サロンとは、貴族や実業家が邸宅に芸術家、学者、作家らを招いた社交の場のこと。フォーレとドビュッシーが、共に通ったサロンを主宰していたエンマ・バルダックという女性をめぐる二人の関係はなかなか複雑というかスキャンダラスです。興味のある方はWikipediaなどをご覧ください。結果としてフォーレ「組曲ドリー」、ドビュッシー「子供の領分」が生まれています。
 フォーレはもちろん作曲家としていくつもの美しいメロディを作ったことで名を残しているのですが、むしろ教育者としての功績のほうが大きかったのかもしれません。ラヴェルらを教え、また異例の抜擢でパリ音楽院の院長に就任し、音楽史の必修化、合奏の重視といった改革を行いました。
 フォーレの「月の光」は、ワトーの絵に寄せたヴェルレーヌの詩に曲をつけた歌曲をピアノに編曲したもの。ドビュッシーの「月の光」は、「ベルガマスク組曲」の第3曲で、ディズニーの「ファンタジア」や「オーシャンズ11」などの映画にも使われました。ベルガマスクとは、16~17世紀頃の北イタリア,ベルガモ地方の素朴な舞曲と言われていますが、ヴェルレーヌの詩に「あなたの魂は、選りぬきの風景/そこを行く魅惑的なマスクとベルガマスク」という一節があり、仮面劇の一群や舞曲を踊るピエロのような一行を表わしているようです。実はフォーレの「月の光」が発表された時、既に若きドビュッシーは同じ詩に曲をつけた習作を作っていました。フォーレの同曲を聴いたドビュッシーは衝撃を受け、数年かけて作り直したといいます。
 「喜びの島」もワトーの「シテール島への巡礼」という絵画に想を得た作品で、ドビュッシーがエンマとのドロドロのW不倫にあった時期、つかの間の幸福な旅の途次に作られたものです。「いきいきとしたリズムと色彩に富み、ドビュッシーのピアノ曲の中でも最も外交的な性格を持ったもの」といわれています(国立音楽大学附属図書館2004年10月)。
 
【ポーランド】
1795年のポーランド分割以後、第一次大戦末期の1918年の一時的再建まで、ポーランドは消滅、独立、反乱、弾圧という混乱が続きました。
 ショパンにポロネーズ(ポーランド風の意)、マズルカ(ポーランド東中部のマゾフシェ地方で16世紀に発達した3拍子の形式)といった祖国由来の舞曲に基づいた曲が多いのは、当時の亡国の民である「ポーランド人」としての思いが激しくあったからでしょう。スケルツォについても、本来は「冗談」を意味し、ふざけた音楽を指していたのを、シリアスながら実験に満ちた逸脱性を強調しているようで、感情のほとばしりを感じるとも言われています。福田素子は「ショパンが故郷を出た1830年に起こったフランス7月革命はヨーロッパ各地に影響を与え、そのすぐ後にポーランドでもロシアからの独立のための反乱が起きた。知らせを聞いたショパンは、帰国して戦うことを望んだが、まわりの説得で断念してパリへ逃れ、そこで音楽活動を続けるのだ。」と書いています(Web音遊人から)。
 ポーランド貴族の家系であるシマノフスキの生地は、当時ロシア領でした。ワルシャワで音楽を学び、交友関係も広がり、後期ロマン派に影響を受けて旺盛な創作活動を開始します。そんな折、ロシア革命の起きた1917年にロシアの過激派が邸宅を急襲、美術品等を略奪され、ピアノを池に投げ込まれるなどし、大きな衝撃を受けます。翌年ついにポーランドは独立、シマノフスキは、祖国の音楽に傾倒していきます。
 このように歴史に翻弄され、作風も後期ロマン派、印象派、民族音楽と大きく変化させたシマノフスキ、抑揚や緩急の激しい、情熱的な作風で知られ、近年演奏機会も増えているようです。

【ノクターン】
 ノクターンnocturneは夜想曲。ロマンティックな夜の気分を醸し出す、夢想的・瞑想的な性格のゆっくりとしたテンポの曲をいい、ショパンが完成させたと言われています。本日お聴きいただくノクターン第20番は「遺作」と呼ばれていますが、これはショパン没後に出版されたからで、実は青年期の作品です。にもかかわらず、死や静寂を強く意識させる曲調となっているのではないでしょうか。第二次世界大戦下のワルシャワを舞台とした映画「戦場のピアニスト」(2002)で使用されたことでも知られています。
 リストの「愛の夢」は「3つのノクターン」の第3番です。もともと『おお、愛しうる限り愛せ』という歌曲だったのを、自らピアノに編曲したものです。元の歌曲は、男女の甘美な愛を歌ったものではなく、「君の心を信頼してくれる人には/できるだけ、優しくしてあげて下さい」といった、もっと広い愛というか、少し処世訓めいた内容です。(ウェブサイトMusica Classicaから)

【ショパンとリスト】
 「ピアノの詩人ショパン、ピアノの魔術師リスト」とは、その特徴をよく言い当てているのかもしれません。小さなサロンでの繊細な演奏で人気を博したショパンと、大ホールでの華麗で超絶技巧を駆使した演奏を誇ったリスト。二人は1歳違いでもともと仲がよく、互いに尊敬しあっていたのですが、それぞれが愛する女性同士の不仲が原因で、疎遠となってしまいます。しかしショパンの死の翌年にピアノに編曲されたこの「愛の夢」は、二人の友情がよみがえった、美しい結晶だといわれています。原曲の歌詞が、男女間の愛(エロス)ではなく、友情に近い広い愛(フィリア)を歌っていたことが思い出されます。ちなみに、浅田真央さんが2011年~2012年のフリースケーティングプログラムでこの曲を使用していました。
 NHKの「ららら♪クラシック」でこんな言葉が紹介されていました。「ショパンの死から37年、リストは74歳でこの世を去りました。リストが晩年に残した言葉があります。
<ショパンはまさにおそるべき天才でした。彼と肩を並べる者は誰もいません。芸術の空には、ただ一人彼だけが光輝いているのです。>」 

 
(じょうねんしょうぞう 本シリーズの企画運営。ダンス批評。神戸女学院大学・近畿大学等非常勤講師。西宮市文化振興課アドバイザー。文化庁芸術祭舞踊・関西審査委員。音楽は素人なので、厳密な点については、ご容赦ください)


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