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梅若玄祥/マチュー・ガニオ他「美の饗宴2015」(2015.1)


大阪能楽会館
梅若玄祥 / マチュー・ガニオ / マリーヌ・ガニオ
1)タイス瞑想曲 パ・ド・ドゥ『私のパブロワ』より マリーヌ&マチュー・ガニオ(振付:ローラン・プティ/音楽:ジュール・マスネ)
2)タイス瞑想曲(創作能舞)梅若玄祥
3)『眠れる森の美女』より  マリーヌ・ガニオ
4)能 土蜘
5)日本初演 マチュー・ガニオ ソロ Eppur si muove
<それでも地球は動く>(振付:ジョルジオ・マンシーニ)

 能楽堂でバレエという試みで、会場に入ってみたらふだんの能楽堂と違って床に黒いリノリウムが敷き詰められていた。木の床がそれとなく光を照り返すのと比べて、空間そのものがどんより沈んだような印象で、少々重苦しい気分で始まることになった。
 梅若玄祥は、新作能や他ジャンルとのコラボレーションにも積極的なシテ方。マチュー・ガニオはパリ・オペラ座バレエ団のエトワールで、美貌と気品をそなえ、人気が高い。マリーヌはその妹で、同じくパリ・オペラ座のスジェ 。
 はじめに空間としての違和感を指摘しておこう。能楽堂にバレエダンサーの身体が現れるということについて、まず皮膚が(レオタードが)あらわになっていることの驚き、そして垂直方向に上昇する動きが展開されることの違和感に、最後までなかなか慣れることができなかった。照明の色がアンバーだったことにもよるのかもしれない。肌の色が肌の色であるように強調され、生々しさが際立ち、彼岸性に欠けたように思われたのが残念。あれがもう少し白または青みがかっていたら、また違う印象だっただろう。
 そもそもは、能楽堂という空間、場についてのことなのだろう。能舞台とは、何ものかを鎮めるための場となっているのではないか、つまり下降する空間ではないのか、だからここで飛翔するのは間違っているのではないか、と思ってしまったのだ。
 にもかかわらず、ガニオ兄妹はその重力のようなものに対して、抜き手で泳ぎくぐるような形で踊りきったように思う。「眠り」はもちろん「タイス」も、バレエらしいノーブルな佳品だったし、二人のダンスはこれ以上なほどに高貴で上品だった。こんな間近に世界一流のバレエダンサーを目にしていいのだろうか、と戸惑うほどのステージ。能舞台は狭いだろうし、床もふだんより柔らかいのではないかなどと案じられたが、一定の余白を残しながらも伸びやかで柔らかな動きを十全に見せた好演だった。
 バレエ「タイス瞑想曲」は、ガニオ兄妹の両親ドミニク・カルフーニとドゥニ・ガニオが1986年に初演、2歳半だったマチューが母に手を引かれて小さなアルルカン役で初舞台を踏んだ作品だという。オペラでは娼婦タイスが修道士アタナエルによって改悛し神への帰依を決意するシーンに当たるそうだ。
 能舞「タイス瞑想曲」で玄祥は「シオリ」を多用し、それにマチューが合わせる短い時間があった。橋掛りのマチューと本舞台の玄祥との間に緊密な関係を張りながら、やはり両者の身体性には大きな懸隔がある。おそらくは、身体のどの部分に力を入れ、どの部分を緩めるか(あるいはどこも緩めないか)という根本で、全く異なる技法を持っているに違いない。感じられたのは、マチューの玄祥及びこの空間に対する敬意のようなもので、一方では玄祥の身体が西洋のクラシック音楽に抗い寄り添う波のようなうねりがあり、息を呑むような連れ舞だった。二人が個別の人格として立っているのではなく、むしろ共にある種の抽象的空間を形作り、マチューが訪れ去っていく幻のような役割を的確に果たしていたのが印象に残った。

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