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マチネ・ポエティク詩集について

 次回の読書会の前半では、1940年代の詩ということで、戦中から戦後にかけて、日本の戦後詩の揺籃期について、講義形式でお話をさせていただきますが、その一つがマチネ・ポエティクです。
 福永武彦、中村真一郎、加藤周一がメンバーだったというと、驚かれるかもしれません。1942年に朗読会の形で始まったごくささやかな運動体で、日本語による詩の美的な形式について、日本の古典、フランス文学の知見から考究し、定型押韻という形で実践を図ったものです。
 1948年に刊行された[マチネ・ポエティク詩集』の序文にあたる「詩の革命」には、日本の抒情詩には3度の革命があったと指摘されています。1度目は短歌形式の誕生、2度目は短歌形式が上と下に分かれ、連歌を経て俳句形式の誕生、3度目は明治期の新体詩を経て島崎藤村、薄田泣菫、蒲原有明によって近代的抒情詩が成立したこと。
 その文語的美による形式の完成が、北原白秋によって保守的な江戸末期的な小唄のようなものとなり、その完成度を萩原朔太郎が口語によって打ち砕くが、その時形式美は犠牲にされ、詩は解体へと向かうことになった。中原中也や立原道造がかろうじて古典的形式の回復を試みようとしていたかに見えたが、戦争が押し寄せてしまった。
 というのが、ここでの日本の詩の歴史への見方でした。
 さらにここでは、明治以降の新体詩が西欧の詩を模倣移入することで短歌俳句の精神と方法を否定する歴史だったとします。その上で、ボードレールの詩的交響=コレスポンダンスを引き、詩人は対象を写すカメラではなく、全世界を溶け合わせる坩堝のようなものであり、読者の構想力に交感を呼び起こし、魂の全体へ働きかけるものだと説きます。
 西欧特にフランスの詩の状況と日本とを引き比べ、フランスのそれが前述のように魂全体へのレアリスムに、転換したのに対し、日本では半世紀前の懐疑的な相対主義(それが何を指すか、ライカ的在り方あるいは19世紀決定論的分析主義、と呼ばれているものでしょうか)にとどまっている。我々は、マラルメから始めなければならない、としています。
 浪漫派や高踏派ではなく、象徴主義的精神をと続けます。
 そして最後に、厳密な定型詩の確立が必要である、それが日本抒情詩の第四の革命だと、高らかに宣言します。それは日本語から多くの美しい可能性を引き出し、詩の言語の不安定さや任意性を排除するだろうと。

 なお、この前半で称揚されている蒲原有明(かんばら・ありあけ 1875~1952)の『春鳥集』(1905)の序文には、以下のような一節があります。

 詩形の研究は或は世の非議を免かれざらむ。既に自然及人生に對する感觸結想に於て曩日と異るものあらば、そが表現に新なる方式を要するは必然の勢なるべし。夏漸く近づきて春衣を棄てむとするなり。然るに舊慣ははやくわが胸中にありて、この新に就かむとするを厭へり。革新の一面に急激の流れあるは、この染心を絶たむとする努力の遽に外に逸れて出でたるなり。かの音節、格調、措辭、造語の新意に適はむことを求むると共に、邦語の制約を寛うして近代の幽致を寓せ易からしめむとするは、詢に已み難きに出づ。これあるが爲に晦澁の譏を受くるは素よりわが甘んずるところなり。

 「非議」とは、悪口、批判。「曩日」(のうじつ)は、先ごろ、先日、以前。詩形を研究することを、自然観・人生観が従来と異なる以上は、必然的なことなのに、形式的とか表面的とか言って悪口を言われるだろう。確かに古い習慣を捨てて新しいことをしようというのは大変で厭わしいことだ。しかし、様々な修辞において日本語の制約をひろげ新しいものを求めることは、当然のことではないか。というほどの意味でしょうか。
 有明の難解な詩行が、明治も後半の成熟しつつあった近代日本(と思われたであろう当時)の精神を表現するために必要な晦渋であったとするものなのでしょう。

 それに類したことを、マチネ・ポエティクの若者たちも感じ取っていたのではないでしょうか。

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