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講演『宝塚歌劇を楽しむ』II<タカラヅカに見る世界の歴史>(2009年6月)

和泉シティプラザ市民カレッジ「趣味を楽しむ毎日を!」
『宝塚歌劇を楽しむ』I <タカラヅカに見る世界の歴史>
2009年6月20日(土) 

 宝塚における男性と女性ということを考えると、もう一つのテーマは、観客が圧倒的に女性であるということです。全般的に舞台芸術、演劇でもダンスでもバレエでもミュージカルでも、そしておそらく美術館でも、何かそういう文化・教養系の催しへの参加度は、女性のほうが高いという印象があります。そういう意味で、ここに来ておられる男性の方は、実に得がたいというか、すばらしいですね。

 それでも最近は宝塚大劇場も、特に土日には男性観客が少し増えてきたようで、男子トイレでも時々行列ができていて、驚きます。

 女子大が共学になるようなもので、やはり宝塚も男性客の開拓を結構考えてはいるようなのです。おそらくその一つの方策が、歴史物、特に近代日本の歴史物の重視ではないかと思います。今日は、宝塚に見る世界の歴史、というテーマでお話をさせていただきますが、歴史を題材にした文学やマンガを基にした作品も取り上げさせていただきます。

 最近で印象に残っているのは、雪組の『猛き黄金の国』です。これは、三菱グループの創業者、岩崎弥太郎の半生を描いた本宮ひろ志による劇画を原作としたものです。岩崎を演じているのは、轟悠さんです。

 この作品は、幕末の土佐藩にあって、主に経理財務畑で頭角を現し、坂本龍馬を支援し、明治維新をやや側面的に進めていった岩崎なる人物を中心に、裏面史的なアプローチで明治維新、明治の富国の歴史を捉えているものです。

 忠臣蔵の影に天野屋利兵衛がいたように、歴史的な物語の裏には、必ずそれを経済的に支援した存在があったはずですが、それはなかなか表立って描かれません。そこに着目した原作の本宮ひろ志の慧眼、またそれをタカラヅカ化しようとした石田昌也の目の付け所は面白いですね。この演出家の石田昌也という人は、坂本龍馬を描いた『維新回天』、谷崎潤一郎の『春琴抄』を脚色した『殉情』、など近代日本を舞台にした作品を多く送り出している異色の存在です。ややもするとわかりにくくなじみの薄い近代史をわかりやすく取り上げるために、現代の青年(恋人たち)が、古老や研究家に話を聞くようなスタイルの狂言回しを使ったりするのも、工夫の見られるところです。

 この作品で特に印象に残っているシーンをご紹介しましょう。時は明治に移り、岩崎とともに歩んできた龍馬は暗殺され、湖月わたる演じる後藤象二郎(1838-1897)、龍馬の世話になった長崎の商人グラヴァーや、アーネスト・サトウらと共に登場して、岩崎の近況を伝えます。いよいよ岩崎が「三菱商会」を設立したという紹介があり、場面は一気に近代日本の繁栄を支えた三菱の社旗が下り、工場で働く労働者がいきいきと働く姿が、鮮やかなダンスの群舞で表現されます。(第15場「三菱旗揚げ!」 岩崎彌太郎:轟悠、後藤象二郎:湖月わたる)

 三菱の社章、誰でも知っている三つ菱のマークが、こういうふうに提示されて、それが私などは三菱の関係者でもなんでもないのに、奇妙に感動を覚えましたが、いったいこれはどうしたことかと思いました。また、タカラジェンヌが、工場の作業着で踊るのも、なかなか珍しいことです。いずれにせよ、なかなか大胆な作品であったことは確かです。

 これは当然、三菱の関係者は見に来たでしょうから、男性客は増えたでしょうね。ポロシャツにジャケット姿の紳士諸兄が何だか多かったことを覚えています。その人たちの何%がリピーターになったかは知りませんが、少なくとも悪い印象は持たなかったことを祈ります。

 また、同じ石田昌也の作品で、白洲次郎、白洲正子夫妻、そしてマッカーサーの交流を通じて、戦後日本の復興を描いた『黎明の風』(宙組)、焦土と化した日本、視察する吉田茂首相とその娘(麻生太郎現首相のご母堂に当たります)、宮沢喜一らを思わせる官僚たち、そして白洲次郎が登場します。(白洲次郎:轟悠、マッカーサー:大和悠河、白洲正子:和音美桜、吉田茂:汝鳥伶)

 白洲役の轟悠、吉田茂役の汝鳥伶は、共に専科といって、特定の組に属さず、ふさわしい役があったときに特別出演するベテランです。マッカーサー役の大和悠河は、宙組のトップスターで、この7月5日の東京公演最終日で退団します。

 これを見たときの率直な印象は、まず、なんて暗いオープニングだ、ということでした。宝塚歌劇のお芝居は、最初の音楽が重々しく短調で始まるものが多い。ぼくはけっこうそのことにうんざりしていて、たとえばロンドンミュージカルの『ME AND MY GIRL』のような軽い明るさが大好きなのです。何か、暗く重々しいことが、本格的だというように思っているのではないかとかんぐってしまいます。

 それはともかく、とにかく暗い始まりです。もう敗戦国日本は立ち直れないのではないかという暗い気分にさせておいて、堂々とした白洲が現れ、厳粛で男らしい雰囲気を漂わせていく。

 先日、神戸の大丸でも白洲次郎・正子展が開かれ、入場制限するほどの賑わいだったのには驚きましたが、敗戦国日本の中で、一人堂々と占領軍と渡り合ったとか、青年時代にはイギリスへ留学して自動車を猛スピードで乗り回していたとか、そして何より背が高くて男前で、金持ちで、腹が立つほど恵まれた男です。ありえないような、絵に描いたような、ある意味ではまさに宝塚のヒーローにふさわしい男ぶりだったと言っていいのかもしれません。

 演劇というのは、いわゆる劇的な場面を連ねていって感動を連続させ、そのピークに最も劇的な、ドラマティックなシーンを用意して、最高の感動を与える、しばしば悲しみや喜びの涙に暮れる、ということになっているものがほとんどです。その感動のピークで泣くこと、カタルシスといって、浄化作用であるとするのは、ギリシャ悲劇からの演劇の確固とした伝統です。

 そのピークをどこにもっていくかということで、演劇の成否は決まるといってもいいでしょう。石田が取り上げた世界を例にすれば、坂本龍馬であれば、当然龍馬の暗殺が悲劇のピークですが、あえてそれは誰もが知っている当然の帰結として仰々しく盛り上げず、薩長同盟の成功をドラマのピークに持って行ったり、龍馬の妻・お龍さんのほうにズームインすることで、新たな、つまり多くの人になじみのないエピソードやいくぶん創作したようなところをピークに、新鮮な劇的感動を与えることができます。

 近現代史では、リアリティが求められるといいますか、歴史的事実を結構知っている人も多いので、あまり極端にドラマティックに脚色することは難しく、また、歴史的社会的な背景も複雑なことが多いので、演劇としてコンパクトに成立させることはなかなか難しいのかもしれません。厳密にはこうだよな、ということばかり考えていては、わかりやすく面白いお芝居にならない。

 その点、この『黎明の風』は、白洲次郎のいくつかのエピソード(全部Wikipediaにのってるよなんていう悪口もありますが)をちりばめて、思い切って単純化した上で、サンフランシスコ講和条約を一つのピークにもっていった。この場面では、愛国心のような部分を刺激されることもあって、図らずも感動してしまいます。構図としては、『猛き黄金の国』で三菱の社旗が翩翻(へんぽん)と翻るのと同じだといっていいでしょう。

 宝塚歌劇は、あくまでエンタテインメント、娯楽産業であり、大衆芸能といいますか、決して高い芸術性、難解な芸術哲学を指向しているわけではないといっていいでしょう。1公演あたり10万人近い観客を動員しようという舞台が、ハイブロウな芸術を志向するわけがない。そのあたりは、ニューヨークのブロードウェイで行なわれているミュージカルと同じことです。本来であれば、あまり学歴や教養がない人でも、事前勉強などせずに、見れば楽しんで、見終わって頭を抱えて考え込むことなどないような、そんな世界を描くものであるはずです。

 それを小林一三は、国民劇を目指すという言い方で、やや上品に目標づけていました。ここに深入りすることは避けますが、国民劇や大衆に向けた芸能であると言っている以上、難解な芸術性や、極端に反体制的な考え方は、タブーであると言っていいでしょう。しかし、その範囲の中で、民衆の悲哀を描いたり、革命家の勇姿を描いたりすることはあったわけです。正塚晴彦という演出家は、ぼくの大好きな作品をいくつも作っていますが、中南米の小国の反政府ゲリラだった青年を主人公にしたすぐれた作品を多く作っています。ただ、そこでは固有名詞、たとえばゲバラやカストロといった名前は出さないのですね。おそらくそれは、慎重に回避されているのでしょう。

 サッカーのワールドカップの頃でしたか、プチ愛国心という言葉がけっこう話題になりましたが、自分が帰属する団体・組織を愛する気持ちは、ほとんどの人が持っているものです。愛社精神、主君への忠誠、愛校、高校野球、郷土愛、愛国心、様々な形で語られます。三つ菱の社旗に感動したり、サンフランシスコ講和条約で日の丸が…というセリフに感動したりするのは、その延長線上にあるといっていいでしょう。宝塚は、そういうものを謳歌する傾向がありますが、それと同時あるいは裏腹に、そのような組織・団体への愛着と、個人の感情が図らずも対立してしまい、その狭間で個人が苦しむという姿も、よく描かれます。両方とも、人間のドラマを描くためには、必要なものだからでしょう。

 おそらく、それはヒーローというもののもつ両面であるのでしょう。何かへの反抗が革命になり、それが英雄化されるというのは、当然のごとく延長線上にあるもので、オスカルのようにその半ばで落命してしまえば、堕落する可能性はなくなりますし、正塚が描く人々は、既にヒーローであることを終えています。

 さて、先週、宝塚は男役至上主義で男尊女卑で、というお話をしましたが、そんな中で、歴史に翻弄される女性の姿を、精一杯描こうとしているお芝居もありました。

 ご紹介するのは、元外交官の春江一也という人が実話に基づいて書いた『プラハの春』という小説をベースにしたものです。1968年に「プラハの春」と呼ばれたチェコスロバキアの「動乱」がありました。一瞬に終わった反ソ連・市民革命下での群像を描き出した舞台『プラハの春』(2002年、星組)です。ジャン=ポール・ゴルチェが衣裳を担当したことでも、ユニークな公演でした。

 メインとなっている女性は、渚あきが演じているカテリーナです。渚あきは、今度市村正親の『炎の人』に出演します。カテリーナは東ドイツ人で、離婚協議中の夫は東ドイツ中央作戦参謀局長。主役の堀江は香寿たつきという人で、歌、ダンス、演技と三拍子揃った実力派。今度野田秀樹の『贋作・罪と罰』をミュージカル化した『天翔ける風』の主役として京都、兵庫で公演を行います。

 ここでは珍しく、男性が女性の強い意志と情熱を信じて、愛のうちにサポートしようということになっています。もちろん原作があるわけですからそういうことなのでしょうが、女性が外国人で、男性が日本人という設定であることも関係しているのかもしれません。その手のステレオタイプは、わりときちんと守られます。(堀江亮介:香寿たつき、カテリーナ:渚あき、稲村嘉弘:彩輝直、ヤン・パラフ:安蘭けい)

 この『プラハの春』も『猛き黄金の国』も、そして後でご紹介する有名な『ベルサイユのばら』も、歴史的事実を基にした小説やマンガを題材にして、脚色したものです。歴史という大きな物語を舞台にかける上で、小説家や漫画家の切り口を借りるということは、舞台作品としてまとめるために、必要なことだったと思います。それによって、印象的なエピソードや人物に、効果的にスポットを当てることができますし、既に誰かの手によって、これは面白い、興味深いと編集されたことを加工することができます。失敗する可能性が低くてすみます。

 さて、そして『プラハの春』の約20年後、ベルリンの壁が崩壊するわけですが、それも宝塚は『国境のない地図』という作品で描いています。

 この作品は、1995年3月31日初演、麻路さきという人がトップスターになったお披露目の公演でした。お気づきかもしれませんが、この年の1月17日に阪神間は、阪神・淡路大震災に見舞われ、大劇場も約1ヵ月半閉鎖されます。その後での公演だったということもあり、残念ながら様々な理由によるであろう空席も目立ちましたが、熱気のあふれる公演でした。

 興味深い場面、第12場「ベルリンの壁」をご紹介しますが、一番ラスト、東ドイツ政府も混乱を極める中、壁の周辺に市民が集まってきています。軍や秘密警察も集結し、事態は一触即発。そこで一人の女性(美々杏里)が、ベートーヴェンの第九「歓喜の歌」をアカペラでゆっくりと歌い始めます。秘密警察(千珠洸)が銃口を向けますが、屈しない。すると、秘密警察の一人(真織由季)もその歌に和します。驚く同僚。そして時代は壁と共にガラガラと音を立てて転回し、同時に、壁によって二十数年間離れ離れになっていた母(出雲綾)と子(麻路さき)も再会します。

 この作品が感動的だったのは、歴史の歯車と個人のドラマを重ね合わせているところです。歴史という大きな物語を描くだけでは、ドラマティック、劇的になりません。その中で、歴史の波に翻弄される個人、歴史を牽引しようとして全力で格闘する個人を描いてこそ、ドラマになるわけです。(ヘルマン(東ベルリン出身の作曲家):麻路さき、ザビーネ(ヘルマンの恋人だった秘密警察官ベロニカの双子の妹):白城あやか、ハインリッヒ(秘密警察官):真織由季、ベアーテ(「壁」によって生き別れになったヘルマンの母):出雲綾)

 歴史を取り上げることの大切な面白さの一つに、ヒーロー、英雄像の提示ということがあります。最初のほうで、男性観客を引き込む方策の一つとして歴史物を扱うというお話をしましたが、それだけではなく、歴史上のかっこいいヒーローというのは、女性にとっても憧れの的であることが多いでしょう。

 しかし実際には、今日ここまでで取り上げてきたのは、岩崎弥太郎というどちらかというと裏方の人、白洲次郎という最近ブームではありますが、歴史の表に立ったのではない人、そして『プラハの春』『国境のない地図』では、歴史に題材をとりながらも架空の人物を置いていて、決して英雄物語ではありませんでした。それは、これらが近現代の物語だったからかもしれません。戦争一つとっても、昔は「やあやあ、我こそは」と名乗りを上げてから斬り合っていたわけですから、個人と個人の戦いであり、個人の存在の重さというものがあった。ところが今は、無名性が直接相対することなく、画面上でゲームのように狙いを定め、ボタンを押す。この違いは大きいと思います。そこに、個人の葛藤や苦悩は生れにくい。

 ですから、日本なら豊臣秀吉ぐらいまで、ヨーロッパならナポレオンぐらいまでが、ひときわ屹立した英雄の時代ではなかったかと思います。戦争はもう集団戦になっていくし、王や君主が一人で政治を決められるわけでもなくなる。

 宝塚の大劇場公演で最近取り上げられた歴史上のヒーローというと、アンチヒーローも含めて、ジュリアス・シーザー(2006年5月)、坂本龍馬(同年11月)、スサノオノミコト(2004年4月)、玄宗皇帝(2004年10月)、といったところで、龍馬以外は、ものすごく古いです。英雄というものは、だいたい神話化・伝説化されることが多いように、「ありえない」ような力を発揮する時期があるようです。その「ありえなさ」に対する畏敬、憧憬が英雄物語が愛される理由です。そして多くの小説家や漫画家は、その英雄の周辺に、それを支えた多くの取り巻きの素晴らしさをも描いてきました。 

 『ベルサイユのばら』にも、オスカルという水際立ったヒロイン(ヒーロー)がいますが、多くの登場人物がタペストリーのように歴史をつづっていく、群衆劇だといっていいと思うのです。

 宝塚では、「ベルばら」は一通りではありません。本来の主人公であるオスカルやマリー・アントワネット、ということは宝塚では男役が演じるに相応しいオスカルを主役にしたものが中心ですが、アンドレ、フェルゼンを中心としたバージョンも生まれていますし、昨年には、ジェローデル、アラン、ベルナールを主役としたものまで現われ、ベルばらの物語としての深さというか重層性、フランス革命という歴史的事実の深みを感じさせているといったら、ほめすぎでしょうか。

 ベルばらは1974年の初演から35年たちました。名優・長谷川一夫が演技指導で入って、からだが痛いぐらいでないと、きれいには見られないんだよと言ったとか、目に星を入れろとか、様々な伝説が伝えられています。

 宝塚がベルばらで変わったことは確かでしょうし、観客が飛躍的に増えたことも確かです。プロジェクトXにも取り上げられたぐらいでしたから、ベルばらがなかったら、阪急ブレーブス同様、阪急電鉄は宝塚を手放し、宝塚歌劇は消滅していたかもしれません。

 しかしさすがに35年たって、宝塚のベルばらは現代という時代に合わない部分も出てきているように思います。フランスの宮廷や軍を背景とした、オスカルいじめとも言うべき極端な男尊女卑的な発言は、さすがにかなり耳障りなものになっていますし、台詞回しや演技の方も、幾分時代がかった感じに思えるようになって来ました。歴史的背景とかを話さないといけないのでやむをえないのですが、説明台詞も多すぎる。テンポも遅い。今や宝塚の当たり狂言は、『エリザベート』のほうで、古くからのファンは、ベルばら再演と聞くと「えー! もう、ええわ」と拒否反応を起こしている、というのが実情です。

 しかし、今回ベルばらをいくつか見返してみて、やはりそのスケールの大きなドラマ性には、改めて感動しました。伯爵家の娘でありながら男として育てられ、男性社会である軍隊に入り、最初は宮中の近衛隊として宮廷の女性たちの憧れの的となるが、やがて使命に目覚め、最前線に出て行く。性差、身分の差、様々な理不尽を打破しようとしながら遂に戦場の露と消えていく架空の「男装の麗人」オスカルとそれを見守る男アンドレ。その架空の人物の背景には、マリー・アントワネットやフェルゼンの現われる重厚な歴史の事実があります。そういう、近景と遠景の配置が絶妙で、歴史のドラマと個人のドラマがみごとに描かれている。

 しかも、オスカルというのは、男女という性を行き来する、宝塚以外では成立のしようがないような人物像です。そのオスカルに対して、また彼女に献身的に尽くすアンドレに対して、様々な形で感情移入をしていけるというのが、大きな成功の原因だったと思います。

 宝塚だけでなく、演劇でも小説でもでしょうが、歴史物と呼ばれるものに多くの人が共感し、熱中するのは、事実に基づいているという保障がある上に、人間の悲喜劇が具体的に描かれているからでしょう。また、おそらく多くの人が、多数現われる人物の中から、自分だったらこの人が好きだ、もし私がこの人だったら、などというひいきや感情移入をすることができます。新撰組でも、三国志でも、戦国時代の武将の群像でも、源氏物語でも、そういう見方をしているのではないでしょうか。

 もし私だったら…という見方ができるということは、観劇の姿勢を非常に積極的なものにします。究極的には、自分も演じてみたいという気にさせるということです。ベルばら人気によって、宝塚音楽学校の受験希望者もずいぶん増えたことでしょう。

 その上、宝塚には、その人物に生徒というスターの存在が、いわば半現実とでもいうべきようなものとして二重化しています。実在の女性である本名の一女性という現実から、タカラジェンヌとして男役の芸名を持った存在になった時点で、おそらく他の芸能界のアイドルの存在よりも、はるかに大きな仮構性を備えてしまうのだと思います。

 また、役替わりというのも大きな効果があります。初代オスカルの榛名由梨が、その次にはアンドレをやりました。すると、榛名由梨のファンは、その両方の人物像が収斂した存在として榛名由梨に熱狂するのです。ベルばらについては、特に多くの役代わり公演を実施しています。様々なオスカルやアンドレやを見比べることで、それぞれの個性が多角的、重層的に見えてきます。役も、生徒もです。

 宝塚は夢のようだとよく言われますが、それは、自分の夢を、目の前の生身の生徒に仮託して見ることができるから、非常に強力な夢見る装置なのだと思います。単なるお勉強としての歴史劇にとどまらないのは、そういうことです。夢見ることができるということは、可能的には、自分もそうなりたい、そうなれるかもしれない、と思わせることで、ベルばらが与えてきた「夢」が、もちろん池田理代子の原作自体がそうなのですが、1970年代以後の日本の女性の人生観や社会意識に与えた影響は、案外大きいのではないかと思います。


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