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あさきゆめみし/ザ・ビューティーズ(2000年7~8月)


 「あさきゆめみし」劇場版の評価は、難しい。映像版が、詩そのものといっていいような美しい言葉(脚本=唐十郎)、夢まぼろしを思わせる詩的な映像(監督=三枝健起)で、現実から浮遊したアナザー・ワールドとしての絵巻物を構築し得たのに対し、現実の舞台というものは、よほどの仕掛けを講じない限り、あくまでリアルなものだ。だから、演出の草野旦は、映像版と全く別の「あさきゆめみし」を作るべきだったのに、映像版の魅力と舞台のリアルさに引っ張られ、絡め取られて、どっちつかずの中途半端な作品になったように思えた。

 劇の作りとしても、物語のヤマをオムニバス形式で集めたもので、一貫した流れを楽しむより、独立した場面の美しさや切実さを味わうものとなってしまった。そのため、断片的な構成となり、源氏物語の複雑な人間関係が把握しにくく、観客にかなりの事前学習を強いてしまい、結果的にやや眠い芝居になってしまったのではなかったか。

 また、そのように詩的な味わいを強調しようという意図が見えたにもかかわらず、時折、台詞や歌詞に粗雑な言い回しや薄っぺらな表現が耳についたのは、残念だ。

 それでも、たとえば朧月夜との別れの場面には、映像版を引きずる形の夢幻のような浮遊感が出ていたし、柏木の嘆き、紫上甍去後の源氏の嘆きと連なる後半では、リアルな緊張感が出ていて、よかった。これは劇として均質な流れがなかったということを言っているだけのことかもしれないが、逆に割り切ってショーのような場面ごとの楽しみ方をすればよかったのだし、愛華みれの懐ろの深さを証しするものともなったようだ。

 愛華は、一見場面場面を淡々と流しているように見えて、実は場面によって的確に演技の質を変え、結果的に光源氏の後半生を過不足なく演じ切っていたように思える。青年時代は青年らしく、位階が登るに連れて威厳を帯びて、という演技の当然の変化はもちろん、リアルな演技と様式的な演技を使い分け、役者としての幅の広さを印象づけてくれた。

 この劇を論じるに当たって、重要なポイントであり、評価に戸惑いながらもやはり好演だったと思っているのが、明石上の水夏希だ。率直にいって、水は歌もつらそうだったし、いわゆる美しい女御として立ち現れたわけではなかった。しかしながら、ちょっと鋭角的でゴツゴツした硬質な感じと、型を強調した動きがいかにも明石上の人となりをよく表わしえており、殊に紫上との対面を滋味あふれる場面として突出させたことを、高く評価したい。これは一つに配役の妙、一つに水の役に対する読みの深さによるものだと思う。

 そして明石上と対した紫上の大鳥れいも、藤壷との演じ分けを美しく綿密にこなしたといえる。源氏が明石から帰京したのを「夢の人、愛しい人、おかえり」と迎える歌を終えて、台詞ではなく表情で深くうなずく表情がしみじみとしていたし、紫上の最期も、実によかった。朧月夜の渚あきも、歌にいい味わいが出ており、重い存在感を際立たせた。六条御息所の貴柳みどりも、台詞回しはもちろん、眼ざしが強く、笑い方も不気味で、適役。

 柏木の伊織直加が見せどころのある、しかも伊織に似合いのおいしい役で、得をした。嘆きがうまく、消え入りそうな人物はまさに適役だが、いつも泣き顔ばかり見せられるのは、ちょっとどうかと思う。瀬奈じゅんの夕顔は、育ちのよさそうな好人物を的確に演じていた。楓沙樹は、朱雀帝という重い役だったが、源氏と居合せるシーンではやや大きさが出ていなかったのが、朧月夜とのシーンでは帝らしい鷹揚なスケールが出ており、関係性を非常にうまく出せていたと思ったのだが、うがち過ぎだろうか。良清の壮一帆の美しくりりしい姿が目を引いた。

 刻の霊という、トート閣下のような役を与えられた春野寿美礼は、美しく、妖しく素晴らしかった。カゲソロもよかった。しかし、全体には解説役の域を出ず、源氏に「さらなる栄華の厚化粧」という言葉を投げるほどには、その生涯をシニカルに見ているようには受け取れず、この劇の中での位置を定めにくかったのが残念だが、これは演出家の問題だろう。黒天使のような刻の響の五人については、幸美杏奈、絵莉千晶、百花沙里の娘役のほうが妖しさがよく出ていた。

 「ザ・ビューティーズ」では、エトワールをはじめ舞風りらの動き、表情、姿、歌が目立ち、飽きなかった。花央レミと愛音羽麗が大きなダンスで目立っていたのもいい。町風佳奈、翔つかさらが美しい姿態を見せてくれたのも、収穫。

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