見出し画像

現代詩を読む会(6)終了

 2024年3月27日に、「現代詩を読む会」(6)を開催しました。
 第一部は「シュルレアリスムの詩」と題して、上念が資料に即して説明。巌谷國士氏の事典や『シュルレアリスムとは何か』の記述、またブルトンの「宣言」、瀧口修造の「シュルレアリスムの詩論に就て」などを参照しながら、用語、現実への見方、ダダイスムとの関係についてなどの大まかなところを説明した後、西脇順三郎「天気」「世界開闢説」、瀧口修造「絶対への接吻」「妖精の距離」(写真)などの詩を読んで、言葉のイメージの反発と共鳴、ディペイズマン(意外な組み合わせによって、受け手に強い衝撃を与える手法)について略説しました。
 その後、北園克衛に続き山中散生の活動と作品を紹介。ほとんど忘れられた存在ですが、瀧口と共にシュルレアリストとして世界的な同時性を持った数少ない詩人でした。
 最後に、オートマティスム(自動筆記)について、ブルトンの言葉や巌谷氏の解説を基に説明し、いくつかの作品を読みました。
 ディペイズマンの組み合わせが、どの程度計算されているのかはわからないものの、それによって生じる感興(のようなもの)の質については、享受者に任されているのかどうか、それはシュルレアリスム特有の技法なのか、といった質疑もあり、短時間でしたが、盛りだくさんで充実した会になりました。

 後半は、和合亮一氏の『such and such』(思潮社、2023)の数編を読みました。詩集を未見の人もいたのですが、終了後ぜひ入手精読したいとの声が上がり、その魅力を分け持つことができたようです。
 水のイメージが頻出することから、やはり東日本大震災の津波からもたらされた衝撃が編成されている言葉なのだろうという前提から読み進んでいきましたが、あまりそのことばかりに引きずられてしまうこと、また読み手の事実に対する当事者性を強いることの危険性の指摘があり、言葉と現実との距離の取り方、想像力の方向について、読む側の立脚点の難しさ、などについて深く考えさせられる結果となったように思います。
 前半のオートマティスムについての略説から、和合氏がオートマティスム的手法をとっていると言明していることにもふれ、言葉があふれ出てくる状態、その状態に追い込まれること、またオートマティックな言語表出の過程に推敲といった作業はありうるのかどうか(シュルレアリスムにおいては、スーポーが特にそれを否定したそうです)、されば和合氏の詩の言語はどのようにして詩的であるのかということなど、表現の深い問題に立ち入る戸羽口にも立てたように思います。
 非常に濃密な読みのできた会だったように思えました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?