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『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(20)佐藤玲緒奈「FLOWER」

 テキストに影響されて、動きは、そして舞台全体の空気はどうしてもシリアスでドラマティックなものだが、それに関係性のある種の頽廃的な異常性を加えれば、サイトウが描き出す世界のほとんどの要素を拾うことになる。サイトウの作品の多くは、そういう濃密さをもっているが、佐藤玲緒奈の短いソロ作品「FLOWER」は、いささか様相を異にする。この作品は、約8年前に佐藤のバルナ国際バレエコンクール出品用に振り付けられたもので、謡曲「弱法師」をバックに一気に踊りきる。少なくとも前提としては物語も仕掛けも人物設定もなく、衣裳もグレーを基調としたプリーツのシンプルなもので、ただ謡曲の拍や調子を汲み取って踊るというだけの作品だ。
 ここでも佐藤は、ほとんど無表情のままだ。それは能面のようだが、「弱法師」で使われる能面は特殊なもので、極端に伏し目がちに彫られている。もちろん俊徳丸は盲目という設定だから、目を見開くということはありえない。サイトウは謡曲の詞章は作品の内容に関係はないというが、視線や表情は大きなポイントになるだろうし、初演時には「草子洗小町」であったのが、いっそう悲惨な物語の曲に変わったというのも、踊りに全く影響を与えないわけではないだろう。もしかしたら言霊とでも呼ぶべきものが介在しているのかもしれない。
 結果的に佐藤は、動きとは無縁に始まり流れ終わる謡曲から、力ずくでテンポやリズムを搾り出し、その後は逆にそれに絡め取られ踊らされる、操り人形のような劇をあらわすことができていた。バレエダンサーがすり足のような足の運びをすると、立った身体の軸が重力が失われたような異界感を生み出すものだと驚いたし、最後に毅然とした表情で直角に曲げたひじから上下に手を振り動かす様は、それらのドラマすべてを振り切ってしまうような力を持っていた。
 サイトウの濃密な世界観のためには、バレエダンサーの身体が必要なのかもしれない。その動きの速度、身体の角度、正確でありながら情緒を的確に表現する身体があってこそ実現する、デカダンというものがあるのだろう。では、他の振付家にとって、そのような身体は必要ではないのだろうか、他のダンサーにとって、バレエダンサーのような身体は必要ではないのか、ということにもなる。バレエを離れた身体が、得たものと失ったものを、厳密に考えてみなければならない。失ったものがあるとすれば、それを、またはそれに代わる何かを、どのように獲得すればいいのかを、考えたいのだ。貪欲でありたい。

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