環バレエ創立60周年特別記念公演
8月25日、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、環バレエの創立60周年特別記念公演。
第一部はパキータや海賊といった名作のパドドゥなどのダイジェストで、見せ場のオンパレード。ただただ何も考えずにテクニックと美しさに酔いしれているという幸せな時間。男性ダンサーの特にジャンプに面白みがあり、中でもラ・シルフィードの十川大希は、重力に立ち向かうのではなく浮力を身にまとうような、無作為なというのはふさわしくないかもしれないが、プレパレーションを意識させず、自然に、気づくと跳んでいる、というほかはないような動きが魅力的だ。
また、フェアリー・ドール(人形の精)のパドトロワでは、米田くるみ、亀田研介、稲垣真汐のコミカルで愛らしい動きが印象に残った。男性のピエロの二人が白塗りメイクをしていることもあり、米田に豊かな表現力が求められるところ、コケティッシュな表情豊かな動きが適切で、コメディとして存分に楽しむことができた。
最後に十川大介の振付作品「涙の日」で、暗い世界での細いつながりを希求するような美しい小品を置いて、しめやかに幕を下ろしたのが印象的だった。
第二部は環バレエにすっかり定着しているサイトウマコト作品で、「緑児の夢」。コインロッカーベイビーを題材とした40分弱ながらも大作で、メインを池田由希子、その対となる存在を十川大希が務め、バレエ団の実力と魅力が遺憾なく発揮される作品となった。バレエミストレスは、斉藤綾子。コインロッカーに嬰児が置き去られる事件を核にして、嬰児を時代の生贄として多面的に描いた傑作。
緑児の池田はいつもながらその痩躯からは予測できないパワフルな動きで圧倒。悲しみとも憂いとも恐れとも受け取れるような複雑な状態の表情を全身から発することができる、見応えのあるダンサー。選ばれし乙女というような昂揚はなく、子宮でもあり棺でもある立方体の中で短い生を終える緑児の意識以前の悲劇が、観ていることがつらくなるほどに体現されていた。
十川大希の「生き残った子供」に生き残った喜びがあるはずもなく、サバイバーズ・ギルト(生き残った者の罪悪感)を抱えて生き続けなければならない宿命を、直線的に描き切れていたように思う。第一部でもふれたが、テクニックを作為として感じさせない無為(わざとらしさや、さかしらのない状態。老子などによる)のあり方、何もできない状態に追い込まれてしまった姿が強く印象に残る。
他にはおそらく両親の存在としての山口章、安達奈都子が重要な存在感を見せ、20名を超える「駅のコンコースを行き交う人々」「忘れ去られた子供たち」が舞台いっぱいに驚異的な運動量を見せ、時代が社会が個人を追い込む切迫をぎりぎりまで見せていたようで、圧倒的な時間だった。
第三部「情熱のエスパニョール」は、1965年のバレエ団創設翌年の初のリサイタルが環佐希子のヨーロッパ帰国記念「バレエとスペインの夕べ」と題されていたことからもわかるように、バレエ団の重要なレパートリーの一つの柱であるスペイン舞踊を集めた。
もちろん宝塚歌劇やOSKのショーなどでお馴染みの激しくにぎやかでカラフルな場面もあるのだが、印象に残ったのは高貴で優雅で洗練された、華道で言えば生花正風体のような「ソレアレス」などの場面。福益壽子、森松典子、安達奈都子、安達麻紀といった経験豊かなダンサーによる楷書的な凛として堂々とした動きには、品格というほかはない緊張感のある空気が充溢していた。
環佐希子さんには、最晩年、もう杖をついて歩いておられる姿にしか接することができなかったのだが、いつも穏やかに微笑んでおられて、何処の馬の骨ともわからぬぼくのようなものをもバレエに関わりのある一員として受け入れてくださっているという柔らかなトレランス〜包容とか許容とか〜を感じさせてくださる、豊かな方だったと記憶している。
プログラムの最後に置かれた「環佐希子追悼「ボレロ」」では、佐希子さんの舞台の映像が流れ、舞台の中央を照らすスポット、佐希子さんの映像が常に中心にあって、周囲の(ボレロのベジャール版で言えばリズムに当たる)おおぜいをバレエ団のメンバーが務める、ダンサーも観客も佐希子さんの姿を見つめ、その不在を思うという、追悼の時空間として非常に豊かでしめやかなものとなった。舞台の中心は、最後まで空けられて不在であり、だからこそ佐希子さんの存在を強く印象づけ、団員や関係者にとっての彼女の存在の強さがぼくたちにも響くものだった。
「ソレアレス」でも強く感じたのだが、バレエを、ダンスを生きるということは、このような敬意が連鎖し、それが品格となって人間を形づくっていく、そのようなものであること、そうであってほしいと願われることであると、背筋が伸びるような思いに襲われた。
美しい公演だった。
写真はチラシから。おそらく「ボレロ」で中央が環佐希子さんだろう。