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随想:彼というパフォーマーと孤独について

(別名 : 感傷的な“オタクのこじつけのコジコジ”『引用:ジョー・力一初回配信より』)

※お酒を服用し、深夜の感傷に浸って、たくさんのひとのツイートを見て、感情がぐずぐずになってから書かれた文章です。その点をご了承ください。

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自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない。クリエイターないし、パフォーマーに付きまとうのが『孤独』というものだ。
たとえば机に向かうとき、たとえばキャンバスに向かうとき、たとえば楽器を練習するとき、たとえば壇上でスピーチするとき、たとえばステージの上でパフォーマンスをするとき。いつでも彼らは独りである。彼らが笑えば、観衆は彼らとともに笑う。けれど彼らが泣くとき、彼らは一人きりで泣く。悲しみに人はよってこないから。パフォーマー自身の悲しみに、観衆は寄り添いきれないのだから。

ようやく夢が花開いたステージ三昧の夏の終わりがけ、彼が私たちの前に現れて三周年という記念の日に彼の過去を想起させるような歌を聞いて、現在の彼に想いを馳せ、わたしは今このように筆をとった。

こころに孤独を飼うということ、それはよく知った友人が自分のそばに寄り添うということ。改めてここに提言する。彼というピエロにとって孤独は決して毒ではなかったのだということを。

ひとりになりたがるのにどこかさびしがる様子を見せる彼は、都会の喧騒から少し外れた街灯しかない夜道が似合うひとだと感じる。持ち前のチャーミングさと自他の線引きの思い切りの良さ。ウィットにとんだ言葉遣い。演者一人だけで成立する舞台。それに優しく寄り添う孤独。彼は観客のほうを見ても観客に振り回されない人だ。

ひとりはさびしい、でも人は結局のところは誰にも理解されない寂しさを抱えて生きていかなくてはならない。
たとえどれだけ愛されていたとしても、人間は生まれた時からひとりであり、ひとりで逝く。孤独は人間の本性。だからこそ、人は他の人を求め、愛するのだと思う。

人生とは孤独であることだ。誰も他の人のこころのうちを知らない。みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かねばならない。だからピエロゆえに孤独であるというのは、特段、かわいそうなことではないのかもしれない。

彼の歌声はやわらかく、孤独を内面化して受け入れることは怖くないのだと励まされるような気分になる。
低音も高音も余裕のある耳障りのよい甘さがあるなと聴いていた。のびやかで軽い歌い上げながらも浮わついたところがなく、どこか、あのときの苦しかった彼にいまの彼が「こんなこともあったね、と、遠くない未来に言えるようになるよ」と過去の自分に言い聞かせているようなニュアンスを含んでいる。プレーンかつ色香を仄かに感じさせる不思議な聴き心地。あの頃の彼を思わせる歌詞なのに、かのピエロの“もの”になっているという凄さ。私は彼のまっすぐな歌声が好きだ。聞く前の想像よりあたたかみのあるプレーンで優しい歌声。それがどうして、とても魅力的に感じる。
「サヨナラを告げた、自分を嘲笑った、これでいいんだ」の歌いあげ、とくに「これでいいんだ」に込められた感情の揺らぎで涙が溢れてしまった。心の琴線を掻き鳴らされた3分半。

いまは昔と比べたら孤独から遠ざかったかもしれないけれど、孤独であることを大切に、大切にしているそういう姿勢が彼というパフォーマーを形作っているんだろうと思う。ある種の孤独を愛する人なのかな、と。だからこそ彼というパフォーマーはひとりであったと、ひとりからはじまったのだと言える。これだから追わずにはいられない。わたしのような凡人はいつまでも孤高のひとに憧れてしまう。とくに彼の言葉のなかで『"孤独である"はけしてかわいそうなことではないのかもしれない』、という言葉に救われる人はたくさんいると思う。集団から一人離れた瞬間、ひとは独りになるのだから。

私自身「彼はもう孤独なピエロとは言えない」と言ってしまっていたのだけれど、彼にとっての『孤独』とは、多分彼という人を形作る深いところにあるもの。そしてそれは負のエネルギーを持つものではなく、彼を構成する大事な要素のうちのひとつなのだと解釈している。それは、『人はみんな孤独であること』がわたしの信条であることに起因している。私は彼の孤独の扱い方にいつも舌を巻いているが、それは私も束の間の孤独を愛することに共感するからなのだ。

「孤独である、はけしてかわいそうなことではないのかもしれない」「独りでもちゃんとやるよ」これらの言葉は私にとって彼が自身をきちんと客観視した上で、持ち味をどう生かしていけばいいかをしっかり考えて洗練させていく、そんなしたたかな宣戦布告に映る。その結果として自己プロデュースの上手さが伺い知れたり、ステージや司会といった“仕事”に昇華されているのだ。そして本人が他者に憧れの、向上心を持った姿勢でいるのが何よりも、この人は見ていて安心出来るなと思う所以だ。
また、今でも大散歩するあたり、一人で自分の内面と向き合ったり独白する時間を大切に思っているのかもしれない。孤独の中でしか、自分自身を豊かに深めていくような濃密な時間は得られないと誰だったか偉人も言っていた。

話を戻そう。彼の活動を振り返ったとき、精神的に孤独になるのもしょうがないと思った。凡人とは明確に一線をひかれた感性、才能。

パフォーマーの孤独、それは周りに人がいないという意味ではない。ある種の確立されてしまった精神的孤独。その意味では今どんなに周りに人がいたって彼は変わらず孤独で居続けるのだと思う。

話は少し変わる。ときどき彼から夜の空気を感じることがある。それは彼を構成するものとしての「孤独」とわたしの感じる、ひとりぼっちの夜の温もりのある「孤独」がどこか似ているからかもしれない。どこか、ふっと消えてしまいそうな灯火のような感傷的側面を持つ孤独。一人ぼっちになるのはいやだけど、そっとしておいて欲しい。そんなとき、このピエロの歌う静かな言葉たちを思い出しては勇気付けられる。

私は舞台に彼ただひとりそれ以外に何も無く、スポットライトと観客の視線を独り占めにしている様子がたまらなく好きだ。
最後、彼がステージに浮かび上がった時に拍手が湧いたけれど彼がすっと手を動かしただけで拍手が鳴り止んで客席は静寂に包まれた。彼は場の雰囲気を支配できるひとであり観客の視線を釘付けにできるひとになった。広いネットの海のVTuberという狭い範囲、でもやっぱり途方もなく広い世界の中で、そんな彼の観客になれたことは『幸福』以外の言葉では語れない。

孤独な人間がよく笑う理由を、たぶん私はよく知ってはいない。けれど孤独な人はあまりに深く苦しんだために笑いを浮かべなくてはならなくなったと、そう思っている。

さいごに。
これまでの彼の軌跡を見ることができて、これから先も続くのを知っているからこそ、夜が静かに明けていく時間のような穏やかさを、『人生のメインディッシュにはならない小鉢のような幸福』を、感じられたのだとそう思った。
私の好きな作家の言葉に「私は君たちが忘れてしまったほほえみや苦しみを拾い集めて小さな墓をつくり、その周りに賑やかな草花が咲くのを、長く、長く長く待っていようと思う。」というものがある。私は、どうかどうか彼の末長い活躍を、舞台のしたからできるだけ長く長く見ていたいと思う。彼の過ごした長い冬の時代を想いながら。そして、ようやく訪れた春の時代を、いち観客として眺めながら。


読了ありがとうございました。

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