「あたりまえ」の中にある随神の道
眼の前に現れる現象を、この自分が創り出しているのであれば、自分が普段何を考え、何を思っているかを認識する必要があります。
少し別の言い方をするのであれば、目の前の現象が自分の考えを教えてくれるということもできます。
いずれにせよ、もし心地よく、しかも楽しく生きていくのであれば、自分自身を整える必要があるといっていいでしょう。
では、整えるとはどういうことか。
それは、自分の中に深く眠っているスピリットに繋がるということです。
自分自身のスピリットに繋がることができ、そのスピリットと同じ思いで生きていけるようになれば、目の前にあらわれる現実は、自分が望む現実になっていくものです。
ならば、自分のスピリットは一体何を望んでいるのでしょうか。
自分のスピリットは、何を目的としてこの世界に自分を送り出したのでしょうか。
その答えは、「自分が喜びと感じることをする」ということです。
自分が喜びと感じることをすれば、自分と自分のスピリットは同期するものであり、それが行動の動機となるといっていいでしょう。
逆にいうと、無理をして何かをしていると感じているときは、自分のスピリットと同期していないということになります。
動機がネガティブになるということは、自分自身も自分のスピリットも喜んでいないということなのです。
もちろん、生きていれば「したくない」と感じることをしなくてはならない場合もあるでしょう。
しかし、そういった「ねばならない」ことは、自分が嬉しいと感じていることをしていれば、自然と消えていってしまいます。
なぜかというと、「ねばならない」という思いが「ねばならない」を生み出してしまうからであり、嬉しいと感じることをしていれば嬉しいと感じるのは当然のことだからです。
このため、「なばならない」を手放して自分が喜びと感じることをしていると、自分が楽しいと感じる現実を生み出すことができるようになります。
しかも、自分が楽しいと感じる現実を生み出すことができると、「ねばならないこと」が、自然と解決していくものなのです。
これが随神の道です。
我々のスピリットは、神そのものであり、神とは喜びそのものです。
しかも神は、自分が喜んでいると周りの人にも喜んで貰えるようにこの世界を創っています。
随神の道とは、自分を活かすことで他者を活かす道です。
随神の道を検索すると、「神代から伝わってきて、神の御心のままで人為の加わらないまことの道」と出てきます。
我々のが喜びと感じることは、当然、スピリットも喜ぶことであり、スピリットが喜ぶことをすることが、「神の御心のままで人為の加わらないまことの道」となるでしょう。
喜びと感じることとは、特別なことをするということではありません。
日常の「あたりまえ」と思われることを喜びの中で行うだけで、随神の道を歩むことができます。
もし、今、「ねばならない」と思って何かをしているのであれば、それは「あたりまえ」のことではなく特別なことをしていることになります。
「ねばならない」と感じていることをするということは、あえて特別なことをしているから、「ねばならない」と感じてしまうといっていいでしょう。
今、「あたりまえ」と感じてできていることは、特別なことをしているわけではありません。
実をいうと「あたりまえ」と思ってできていることの中にこそ、自分のスピリットにとっての喜びが潜んでいます。
我々は、普段「いまここ」にある「あたりまえ」をすることで、周りの人に役に立っているものです。
しかも、この「あたりまえ」を喜び感じながらすることができるようになれば、もっと周りの人に喜んでもらえるようになります。
「あたりまえ」を「ねばならない」ですると苦しくなります。
「あたりまえ」を普通にしていると、大きな変化はありません。
「あたりまえ」を楽しんですることができれば、周りの人から喜ばれるものです。
つまり、「あたりまえ」にできることこそが、他者に役立つ道なのです。
「ねばならない」という心に抵抗を感じるような特別なことをするよりも、「あたりまえ」と思っていることに喜びを伴わせることができると、それが自分のためにも他者のためにもなっていきます。
もちろん、何かを始めたばかりで、それが「あたりまえ」にできるようになるまでは時間が掛かるものです。
しかし、そういった時間を掛けてでもやってみたいと思えるようなことほど喜びが大きいものです。
そういった喜びの大きい「あたりまえ」を楽しみながら淡々とできるようになると、人は随神の道を歩んでいけるようになっていきます。
無理をしながら何かをするということは、特別なことをしているといっていいでしょう。
その一方で、喜びを感じて「あたりまえ」にできていることの方が、人として自然な道なのです。
自分の心が楽しいと感じていることをするのが随神の道です。
楽しいと感じていることをしていると、人は元気になってエネルギーが湧き上がり自分という生命を全うできるようになるものです。
内なる神は、肉体を持っているこの自分をできるだけ長持ちさせようとしています。
内なる神は、この地球で過ごすという貴重な体験をできるだけ充実させたいと考えています。
だからこそ、自分が嬉しく感じることをすることが大切なのです。
苦しいことをしていると心身の疲弊が大きく、寿命を縮めることになるため、スピリットはそういったことをさせたいとは思っていません。
しかし、日々、喜びの中で生きていけるようになると、目の前に訪れる現象が喜びに変わっていき、エネルギーが湧き上がってくるようになります。
それが我々の生命の正解だからです。
喜びと感じることを日々行うことができれば、この生命を謳歌できるようになります。
そうなるためにも、まずは「あたりまえ」にできることを楽しんでいけば、よかったりします。
「ねばならない」という特別なことはやめて、「あたりまえ」の中の喜びを膨らませていいけば、更に喜びが大きくなっていき、やがて、その中から軸となる喜びが生まれてくるようになります。
そして、その軸となる喜びを活かすことができるようになれば、結果的にそれが他者の役に立つようになります。
静寂という凪いだ場所に身をおくと、自分のスピリットと繋がることができるようになっていきます。
自分のスピリットと繋がりを深くしていくと、目の前の現象が徐々によくなっていきます。
自分と自分のスピリットが同期すると、随神の道を歩んでいけるようになります。
自分の中の内なる喜びと繋がって生きていく、それが、目の前の現象をよりよいものにしていく近道となります。
目の前の現象は、目の前の「あたりまえ」を楽しんでいくことで良くなっていくものであり、そういった「あたりまえ」の中から自分の軸となる喜びを発見できるようになっていけば、随神の楽しい道を歩んでいけるようになります。
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