第65回:「喜び」を「感じる」から「表現」するへ
今回は、「喜び」を「感じる」から「表現」するへ、ということを書いていきます。
どういうことかというと、人は「喜び」を感じたり「感動」したりすると、今度はそれを表現したくなるということです。
私たちは「見る」、「聞く」、「味わう」、「触れる」、「嗅ぐ」という五感で情報を得ていて、美しい景色を見たり、心地よい音楽を聴いたり、美味しいものを食べたり、触り心地のよい物に触れたり、よい香りを嗅いだりすると「喜び」の感情が湧いてきたりするものです。
また、「見る」、「聞く」、「味わう」、「触れる」、「嗅ぐ」ということは、生まれてから死ぬまで感じていくものであり、こういった五感を人生を通じて満たしていきたいと誰もが思って生きているはずです。
とはいえ、私たちは「見る」、「聞く」、「味わう」、「触れる」、「嗅ぐ」といった経験だけでは飽き足らず、それを表現し「喜び」として味わいたいと思うようになっていきます。
たとえば、音楽が好きな人はミュージシャンになったり、食べることが好きな人が料理人になったりします。
このように、五感で得た「喜び」の経験から「自分もやってみたい」と思うことで、それを表現するようになっていき、今度は、それを提供する側へと変わっていくのが人間の姿なのではないかと思います。
「喜び」は「受動」から「能動」に変わっていく
私たちが、日々体験している「見る」、「聞く」、「味わう」、「触れる」、「嗅ぐ」という五感から得ている経験は「受動的態度」といっていいでしょう。
もちろん、こういった行為は自分の意思で行うものですが、立場としては受け取る立場です。なぜかというと、テレビを点けるは自分の意思ですが、テレビを「見る」という行為は受動的な態度です。
しかし、この五感で得た経験を「能動」に変えると、役者になって「見て貰う」、ミュージシャンになって「聴いて貰う」、料理人になって「味わってもらう」、というように表現する側に変わっていくものです。
役者とかミュージシャンとか料理人などは、五感と直結しているため、例えとしてわかりやすかったりしますが、たとえばプログラマーというような職業も五感で得た経験を複合的に「表現」に変えたものといっていいでしょう。
そういった意味では、私たちが能動的にしていることはすべて「表現」ということができ、五感で得た経験を「自分」の中で変換して、それを表現しているといえます。
たとえば、私がこうして文章を書いていたりするのも、「読む」という「受動的」な行為を「書く」という「能動」に変えたものであり、それが「表現」となっています。
では、なぜ人は五感で受け取るだけでは飽き足らず、提供する側へと変わっていくかというとそこには、生み出すという「喜び」があるからであり、俳優も、ミュージシャンも、料理人も、プログラマーもそこに「喜び」があるからそれをしているといっていいでしょう。
私も日々文章を書いているもの、そこに「書く喜び」があるからであり、自ら表現することで「喜び」を得ようとする能動性があるといっていいでしょう。
とはいえ、能動的に行っていることがすべて表現になるかというと、必ずしもそうではなかったりします。なぜかというと、行為には「受動的な行為」と「能動的な行為」があるからです。
具体的にいうなら、絵を描きたいと思っていないのに描かされた絵には、そこに積極性も喜びもないため表現にはならないはずです。
しかし、幼い子供が嬉々としながら描いた絵は、その内容がたとえ拙いものであったとしても、それは「表現」になるものなのです。
そういった意味では、何かの対象を自ら喜びを求めてする行為は「表現」になるし、仕方なくしていて、そこに「喜び」がなければ「表現」にはならないといってよく、もし何かを表現するのであれば、そこに「積極性」と「喜び」が欠かせないといっていいでしょう。
「表現」は大きな喜び
「喜び」には「受け取る喜び」と「受け取って貰える喜び」の二つがあります。
では、この「受け取る喜び」と「受け取って貰える喜び」を比べるどちらの「喜び」の方が大きいかというと、「受け取って貰える喜び」の方だったりします。
たとえば、美味しいものを食べたときと、自分が作った物を美味しいといって貰ったときでは、美味しいといって貰ったときの方が「喜び」が大きかったりします。
というのも、何かを作ったり表現したしたりするには、それが完成されるまでに、様々な工程があり、その中にたくさんの試行錯誤があったりするからです。
つまり、受け取る喜びよりも提供する喜びの方が、その背景が大きい分、喜びも大きくなるといっていいでしょう。
こういったことも人が何かを「表現する」したいと思う理由であり、自らが造り出したものを、受け取った人に共感してもらえると「喜び」も大きいものになっていきます。
人は「喜び」を交換していきている
私たちは、提供し提供されるということをし合いながら生活を成り立たせていたりします。
たとえば、お店で商品として販売されているものは、作った人の「喜び」の気持ちが込められているはずです。
もちろん、何か作っては販売するということをしていなくても、接客や商品陳列なども、お店の人にとってはそこに「喜び」があるはずです。
また、私たちはその時々で提供する側と提供される側に立場を変えて生活していることから、表現する側とされる側をの立場を変えながら生きているといってよく、「喜び」を交換しながら生きているといってもいいでしょう。
そういった意味でも、私たちが何かをするときには、どんなときでも「喜び」の気持ちを持てるようになると、この世界は、ますますよくなっていくと思います。
そして、誰もが「喜び」の気持ちを持って生きていけるようになるためには、自分が得意とすること、楽しいと思えること、やっていて嬉しいと感じることを意図して選んでしていった方がよかったりします。
なぜかというと、人は自分が楽しいと思うこと、嬉しいと感じることには積極的にかかわれるものであり、そういった姿勢が、他者に感動を与えることになるからです。
「感動」は人の心を動かすものであり、その感動が連鎖し受け継がれていくものです。
そういった意味でも、私たちの一人ひとりは、「表現者」であり「喜び」を互いに与え合っているというような自覚を持てるようになると、この世界は今以上に柔らかいものになっていくのではないかと思います。
普段から「喜び」の気持ちを持ってそれを表現して生きていけるようになると、世界のあり方が変わっていくと思います。
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