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大江健三郎『個人的な体験』

これまで大江健三郎の小説は、なぜかほとんど読んでいなかった。
学生時代に、長編小説ひとつと短編小説を二つ三つ読んだくらいだと思う。

大江健三郎の訃報に接し、追悼の意味も込めて、はじめて『個人的な体験』(1964)を手に取った。

読み始めて驚いたのは、予想を超える面白さだった。ほとんど一頁たりとも退屈を覚える暇がなかった。
昨年の秋に『沖縄ノート』を読み、内容とは別に、その文体の複雑さ、重さにいささか難渋した記憶が新しかったので、『個人的な体験』の文章の読みやすさは意外だった。
(もっとも、文体とはそこに盛られる内容=思想の表現形式である以上、内容と文体は不可分であり、『沖縄ノートの』文体も、必然的にその内容に規定されたものだったのだろう。)

いうまでもなく『個人的な体験』は作者の実体験に題材をとった作品であるが、いわゆる私小説というものではなく、主人公のバードと作家自身との共通点は「ともに頭部に異常を備えて生まれた新生児を持つことのみ」であると設定されている。

文学作品から何を読みとるかは読者の自由なので、私が『個人的な体験』にどのような感想をもったのかをここに記しても、それは、自分自身のためのメモ(備忘録)にしかならないように思う。
それを承知であえて記すのだが、私が最初に感じたのは、人間にとってのエゴイズムとヒューマニズムの境のあいまいさのようなものだった。

図式的に単純化すれば、「バードは、エゴイズムの泥沼から這い出してヒューマニズムに目覚めた」と要約できるのだろう。
しかし、火見子が端的に指摘するように、そのヒューマニズムは、バードのみならず赤ん坊にとっても、より深刻な不幸をもたらしかねないという意味で、むしろ異なった形のエゴイズムとも言えるかもしれない。
おそらくバードの決断は、ヒューマニズムなどではなくて、絶望的な逃避の果てに、結局は「そうでしかありようのない」自分自身に立ち帰ったということなのではないか?
ヒューマニズムと呼ぼうが、エゴイズムと呼ぼうが、いずれにしろ彼の「決断」は、まさにバードという人間の本質を示すものであり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。そんな風に私は感じた。

もうひとつ、ささやかに論じてみたい点は、「この小説の末尾の部分が果たして必要だったのか否か」という問題だ。
というのも、新潮文庫版のあとがきで、作者は次のように書いているからだ。

 この小説を発表した当時、集中的に批判を受けたのが、終幕の部分についてであった。つまりふたつのアステリスクでかぎられた以降の部分が、そこにいたるまでつみかさねられた読み手の、「期待の地平」に陥没をおこすものとして、批判されたのである。若い書き手であった僕は[…中略…]それらの批判に対し、自作を擁護して闘ったものだ。この小説が英訳された際にも、アメリカでのロレンス、ミラー解禁に力をつくした、つまりは文学的見識をそなえたグローヴ・プレス社主から、ふたつのアステリスク以後を切りとってはどうかという申し入れがあり、僕は考えた末それを拒否した。

終幕のふたつのアステリスク以降の部分とは、本編の後日談であり、それまでの小説の基調とは一転して、明るくおだやかで、希望を感じさせる結末となっている。
確かに、そのような、いわば唐突な「転調」が、少なからぬ読者に、ご都合主義的で非現実的なハッピーエンドと映り、興ざめな想いを招いたということはありそうなことだと思う。

作者自身の説明としては、小説の冒頭に挿入されたエピソードと、この終幕の中の一シーンを対照させることを、構想の段階から意図していたという構成上の理由とともに、「もとより僕に息子の運命の好転についての祈りの想いがあり、それが働いて、現に書いている小説の終幕を明るいものにしたかったのであったかもしれない」との述懐も明かされている。

私自身は、一読者として、この「終幕」はあるべきであったと思う。
もし、この部分がなかったとして、ふたつのアステリスクの手前で作品が打ち切られていたら、読者は、小説のクライマックスにおいて、最高潮に高まった緊張感を抱えて、宙ぶらりんのまま放り出されたような気分を味わったのではないだろうか?
なるほど、そのような終わり方もありうるのかもしれないが。

コリン・ウィルソンは、その小説論において、「芸術的に成功した小説」を書くための方法論を「緊張の解放」であると明確に定式化した。

……生物学的にいえば、自由は緊張の解放である。それゆえ、成功した小説とは緊張を構築し、それから雷が落下するように、その緊張を解放するようにしたものである。……

コリン・ウィルソン 鈴木健三訳『小説のために』紀伊國屋書店 1977, p.113.

この「成功の定式」に当てはめるならば、『個人的な体験』の終幕部分は、まさに緊張からの「解放」であり、それによって読者に「自由」と「希望」の感覚をもたらすものであって、それゆえこの作品は「成功作」の条件を満たすものだと言える。
「いや、現実はもっと複雑で困難なものなのだ、そのような安易で都合の良い結末は認めがたい」と考える読者もいるかもしれない。そのような読者は彼らの嗜好に合った作品を見いだせばよい。
いずれにしろ、私は、この終幕を読み終えて、それが束の間の「希望」であったとしても、安堵の想いで本を閉じることができた。

私が本作を面白いと感じ、引き込まれるように読んだ理由のひとつは、確かにそれがコリン・ウィルソンの「成功の定式」に合致していたことにあったのだろう。

しかし、それ以上に、本作から私が受けた感銘は、「人間は、自分自身を貫くことにより希望を見いだしうるのだ」ということ、いやむしろ「人間は、自分自身を貫くことによってしか、希望を見いだしえないのだ」という示唆であったように思う。

バルカン半島の小さな社会主義国の公使館員であったデルチェフさんがバードに贈った辞書に記した「希望」という言葉は、そのことを暗示していたのではないだろうか?


大江健三郎は亡くなったが、彼が残した小説の世界は豊かな鉱脈として厳然と存在する。
すこしばかり遅きに失した感はあるものの、それらの小説を、ひとつひとつ大切に読んでいきたいと思った。





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