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ドストエフスキーの転向―『作家の日記』より②―

『作家の日記』は、最初の一年間(1873年1月~12月)は、ドストエフスキーが編集者を務めた雑誌『グラジダニン(市民)』に掲載された。その後、一時中断を経て、1876年からは、ドストエフスキー自身が刊行する雑誌『作家の日記』が発表媒体となった。

ドストエフスキーが『グラジダニン』誌の編集者を辞する直前に、同誌に最後に掲載された文章が「現代的欺瞞の一つ」(1873、岩波文庫版『作家の日記(一)』所収)である。

この文章で、ドストエフスキーは、『悪霊』(1871-1872)の着想を得たネチャーエフ事件(1869)について論じている。
ネチャーエフ事件とは、当時ペテルブルグ大学聴講生で、急進的な革命運動家であったセルゲイ・ネチャーエフが、秘密結社内の内部対立から同志を殺害した、いわば内ゲバ殺人事件であった。
ドストエフスキーは、「ネチャーエフは特殊な例外であって、一般の勤勉な学生で彼に追随するような者はほとんどいない」と主張する他誌の論文に異を唱えている。その論旨はさておいて、この「現代的欺瞞の一つ」がきわめて重要であるのは、そこでドストエフスキーが自らの思想的転向について告白しているからである。

ロシア文学史上きわめて有名な話であるが、ドストエフスキーは27歳の時に、社会主義思想を研究するサークルへの参加を理由に、他の同志たちとともに逮捕された。いわゆるペトラシェフスキー事件(1849)である。
摘発された同サークルの活動内容はネチャーエフ事件に比べれば遥かに穏健なものであり、ドストエフスキーの直接の逮捕容疑もサークルで反体制的な文献を朗読したことであったとされる。それにもかかわらず、ドストエフスキーを含む21名が銃殺刑を宣告されたあげく、当局の筋書きによって刑執行直前に減刑が施され、ドストエフスキーは4年間のシベリア徒刑に処せられた。

『作家の日記』の一篇として発表された「現代的欺瞞の一つ」において、ドストエフスキーは、自らが連座した事件を回顧している。断片的になるが、その中から、特に興味深い箇所を以下に抜粋する。

いずくんぞ知らん、ペトラシェーフスキイ党もネチャーエフ党になりうるのである。もし事態がそんなふうに転向したら、「ネチャーエフ式」の道程をたどるようになったかもしれない。(中略)おそらく、私はネチャーエフ式の人物にはこんりんざいなることができなかったと思うけれども、ネチャーエフ党の一員には決してならなかった、とは保証できない……私の若い時代だったら、大いになったかもしれない。(米川正夫訳。以下同じ)
私はすでに一八四六年からベリンスキイに勧誘されて、このきたるべき「更生せられたる世界」の真理と、きたるべき共産社会の神聖さに身を捧げたのである。現代社会の(キリスト教的な)根底そのものや、宗教・家庭・私有財産権等の不道徳性に関するこれらの信念、また四海同胞の名において国民的区別を撲滅し、祖国というものを一般的進歩の障害物として軽蔑する思想等々、――これらはすべて、否応なしに、われわれをつかんだ強力な感化であるが、それは一種寛大な精神の名において、すべての人の心をとらえたのである。
(註:ベリンスキーは当時の有力な文芸批評家であり、処女作『貧しき人々』を絶賛してドストエフスキーを文壇に迎え入れた人物である。)
われわれペトラシェーフスキイ党の人々は、処刑台の上に立って、いささか後悔の念もなく、死刑の宣告を聞き終った。私が一同の気持を証明するわけにはゆかないのはもちろんであるが、その時、その瞬間、すべての人が、少なくともわれわれの大多数が、自己の信念を拒否することを破廉恥と見なしたに相違ない。
流刑の幾年間も、苦痛も、われわれの意志を砕きはしなかった。それどころか、われわれはなにものにもひしがれることなく、その信念は義務遂行の意識によって、われわれの精神を支持してくれた。いな、なにかしらある別のものがわれわれの見解、われわれの信念、われわれの心情を一変さしたのである(私はもちろん、所信を変更したことがなんらかの方法で世に知られ、当人によって証明された人々のことのみをいっているのである)。このあるものというのは、――民衆との端的な接触であった、共通の不幸の中における彼らとの同胞としての結合であった。自分も彼らと同じような人間になった、同等なものになった、いな、むしろ彼らの最も低い段階と平均されてしまった、という観念なのである
 繰り返していうが、これは一朝一夕に起こったことではなく、きわめてきわめて長い時日をへて、漸次に行われたことである。
(強調は引用者による。)
私の信念の更生の歴史を語ることは、はなはだ困難である。まして、それほど面白くないことかもしれないし、それに雑文的な論稿には何となく不向きな感がある……

ドストエフスキーの精神の内部に生じた「見解、信念そして心情」の「一変」、これは思想的な転向とみなすのが自然であろう。別の箇所では、より直接的に「前に光明であり真理であると思い込んでいた思想の虚偽と不正をついに確信」したとも記している。

ドストエフスキーは、そのような「転向」をもたらしたものは「民衆との結合」であったと告白している。この「民衆」とは、明らかに「ロシアの民衆」であって、決して、世界共通の「普遍的な民衆」という観念を意味するものではないだろう。さらに、ドストエフスキーにとって「ロシアの民衆」は「ロシア正教」と一体不可分に結びついていた。
同じく『作家の日記(一)』に収録された「受難の御顔」(1873)の中の次のような一節は、そのことを端的に示している。

さて、実際のところ、わが民衆がどんな新教徒になれるというのか、またどんなドイツ人になれると思うのか? 詩篇を唱えるためにドイツ語を学ぶということが、わが民衆にとっていったい何になるのか? またわが民衆が求めているすべてのものが、はたして正教の中に宿されていないのか? ただその中にのみ、来るべき時代のための、全人類のための、真理とロシヤ国民の救いがあるのではないか? 正教の中にのみ、キリストの神々しい面影が、その完全な純潔さを保っているのではないか? そして、おそらく、全人類の運命におけるロシヤ国民の最も根本的な使命は、キリストのこの神々しい面影の完全な純潔さを自国に保持して、時いたらば、道を失った世界に、この御姿を顕現することにあるのではなかろうか!

ドストエフスキーは、ロシアの民衆の中に、そして彼らの正教への信仰の中に、全人類の運命すら決するほどの使命が託されていると、信じていたかのようだ。ここにもまた、小林秀雄が「民衆に対する殆ど神秘的な信仰」と称したドストエフスキーの特異な「民衆」観を見てとることができる。

そのようなロシアの民衆によってもたらされたドストエフスキーの「転向」は、おそらく、『罪と罰』に始まる五大長編を含む後期の燦然たる文学作品を「真に」理解するための重要な鍵であることは、疑う余地のないことであろう。

しかし、その「転向」が「一朝一夕に起こったことではなく、きわめてきわめて長い時日をへて、漸次に行われたこと」であり、まして、ドストエフスキー自身が「私の信念の更生の歴史を語ることは、はなはだ困難である」と述べているとすれば、遠く時空を隔てた異国の人間、例えば現代の日本人が彼の「転向」の本質を理解することなどほとんど不可能であるように思われる。

そうであるとすれば、世界中で、今日もなお綿々と読み継がれるドストエフスキーの文学の時空を超えた意義は、果たしてどのような力に由来するものなのだろう?
いずれにせよ、それは、ドストエフスキー自身の「信念の更生」や、彼のロシア民衆への愛とかロシア正教への帰依といった「個人的な」心情を、もはや超越した普遍性であると言えるのではないだろうか。

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