見出し画像

【前編】「え、知らなかった!」現地留学生が台湾の歴史について徹底解説!

こんにちは!ARCHのNatsumiです!
皆さんは、台湾の歴史についてどのくらい知っていますか?

「台湾が『台湾』という国として独立していたことはある?」「日本に統治されていたのはどのくらい?」・・・など、意外と知らないことが多いかもしれません。

そこで、今回は「台湾の歴史」について簡単にご説明しようと思います!

台湾に興味がある方だけでなく、特に留学中/留学準備中の皆さんに、改めて台湾がどのような歴史を歩んできたのか詳しく知っていただきたいと思います!それでは参りましょう!



1.先史時代

台北ナビー国立台湾史前文化博物館(台東市)

まず始めは、先史時代のお話。
実は、約1万年前まで台湾は中国と陸続きであり、この時期に中国から人々が移り住んだとされています。

現在確認されている台湾最初の文化は長浜文化(台東県の八仙洞遺跡などが代表例)であり、大量の打製石器や骨角器が発掘されています。

台湾の原住民は主にオーストロネシア語族(※)に属し、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられています。その後、北方の漢民族などの圧力を受けて台湾に移住し、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力です。

※オーストロネシア語族は、台湾から東南アジア、オセアニア、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族。台湾の原住民諸語が言語学的にもっとも古い形を保っているとされる。

Wikipedia

一方で、中国大陸では文明や文化が発展していましたが、台湾は中国の首都から見ると非常に遠く、重要な場所としては認識されないまま歴史を歩んできました。

台湾の先史時代の生活についてさらに興味のある方は、台湾の博物館に訪れるのがおすすめです!

2.オランダ統治時代(1624-1662)

原住民が長らく住んでいた台湾に、初めに外部の勢力がやってきたのは1624年。それは、大航海時代にアジアに植民地を求めてやってきたヨーロッパ勢力でした。

ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、船員が、緑に覆われた台湾島に感動して「麗しの島」という意味のポルトガル語「Formosa(フォルモサ、中国語では※美麗島 měi lì dǎo)」という名前をつけました。


※美麗島駅について
ここで話は少し逸れますが、美麗島といえば、台湾の南部・高雄にある地下鉄駅「美麗島駅」をご存知でしょうか?美麗島駅は1979年に起こった民主化運動「美麗島事件」に由来し、民主化の象徴として設計されました。

駅内の地下1階には、「光のドーム」と呼ばれる世界最大級のパブリックアートが展示されています。4,500枚のステンドグラスからなるこのアートは、その美しさから「世界で最も美しい地下鉄駅」第二位にも選ばれ、アジアでナンバーワンの評価を受けています。高雄の人気観光地なので、高雄を訪れる際はぜひ見てみてください!

「美麗島駅」
(台湾プラスより)

それでは、台湾の歴史に戻りましょう。

ポルトガルが台湾を発見した後、実際に台湾を支配することのなったのは、オランダスペインでした。オランダが南部、スペインが北部を支配し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としました。

オランダの※東インド会社はまず澎湖諸島を占領し、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を制圧して要塞を築きました。

※東インド会社・・・アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社。世界初の株式会社といわれている。商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆けとなってアジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。

Wikipedia

スペインは1626年に台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築きましたが、オランダは1642年にスペイン勢力を台湾から追放することに成功しました。

台湾統治に成功したオランダですが、1661年からは鄭成功の攻撃を受け、1662年にゼーランディア城が陥落し、オランダ東インド会社は37年で台湾から駆逐されました。

現在も、台南には当時のオランダの面影を伝える安平古堡(ānpíng gǔbǎo、ゼーランディア城)が残っています。
台南を訪れた際は、ぜひ足を運んでみてください!

Wikimedia Commonsより

ちなみに、当時中国大陸(明が衰退し、清が建国される時期)は台湾に関心を持っておらず、遠く離れた辺境の地と見なしていました。

一方で、日本も台湾に関心を持ち、豊臣秀吉が朝貢貿易体制への組み込みを試みましたが、失敗に終わりました。

ついでに!(「TAIWAN」の由来)
オランダ統治期間中、東インド会社は福建省や広東省から漢人移住民を募集し、彼らに土地開発を進めさせました。
その際、台湾原住民がオランダ人を「Tayouan(来訪者)」と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説があります。


3.鄭氏政権 (1662-1683)

台湾を舞台にスペインとオランダの間で戦争が起こり、オランダが勝利して台湾全土を支配するようになっていた一方、同時期の中国では1644年に明王朝が滅びました。

1661年、明の復興を目指した鄭成功(ていせいこう、Zhèng Chénggōng)は、清が支配する中国大陸から台湾に渡り、オランダ勢力を駆逐して台湾を支配下に置きました。鄭成功は「反清復明」の拠点として台湾を選んだのです。

鄭成功は台湾を「東都」と改名し、開発を進めましたが、1662年に病で亡くなりました。その後、息子の鄭経が後を継ぎましたが、1683年に清に降伏し、約22年で鄭氏政権は終焉を迎えました。そして、それから約200年間は清の支配下におかれることになりました(後編へ続く)。


歴史上の鄭成功は、彼自身の目標であった「反清復明」を果たせぬまま生涯を閉じ、台湾との関わりも短期間でした。
しかし、彼は台湾の開発に尽力し、その功績により台湾の人々から「民族の英雄」として深く尊敬されています。

鄭成功(鄭成功記念館より)

余談ですが、実は鄭成功は中国人の父と日本人の母を持つ日中混血です。
彼と母親の出身地である長崎県平戸市には、鄭成功を記念する資料館があるそうです。興味のある方はぜひ訪れてみてください!


最後に

いかがでしたか?
前編では、台湾の先史時代からオランダ統治、鄭氏政権まで見ていきました。初めて知ったことも多かったのではないのでしょうか?

後編では、17世紀以降から現代までの台湾の歴史を解説していきます。後編もお楽しみに!

今回の記事が皆さんの「気になる」にお応えできていたら幸いです。記事が面白いと思った方、ブログ部を応援したいと思ってくださった方は、ぜひいいねとフォローをよろしくお願いします!

執筆、サムネイル:Natsumi

『台湾留学したいけど、何から始めれば良いの?』

『現地のリアルな声を知りたい!』

『そもそも台湾ってどんなところ?』

そんな悩みを解決したい時は、ぜひこのタピオカ留学noteを覗きに来てください!ブログだけでなくInstagram、LINEオープンチャットなどさまざまなコンテンツをお届けしていますので、フォローをお忘れなく!
タピオカ留学:

公式Instagram:

タピオカ留学の運営に興味がある方はこちらへ:

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?