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「フェミニストを名乗らない」大森靖子に、それでもフェミニズムを感じる理由

時々歌舞伎町に行かないと幸せが分からない
時々手首を切らないと幸せが分からない
他人の不幸と比べても幸せは分からないよ
汚いオヤジとやらないと幸せが分からない

(大森靖子『パーティードレス』)

初めてこの曲を聴いたのは、幸せが分からなかった時だった。分からなかったから、私は大森靖子という人が上辺だけで歌っているわけではないことが分かった。

どこの誰ともいまだ分からない人が、私の心を歌っている。そのことに私は強く惹かれていった。

大森靖子(以下大森と呼ぶ)はシンガーソングライターだ。

奇抜な歌詞や、時に過激とすら思えるライブパフォーマンス(観客のおじさんとライブ中にキスするなど)が目立つが、彼女はただ話題性が高いだけのアーティストではない。彼女のライブに行けば分かるが、そこに集まるのは10代や20代の女性がほとんどだ。

彼女の音楽性は特に若い女性たちに強い誘引力を見せる。一部の彼女のファンは、救いを求めてYoutubeのミュージックビデオを漁り、ライブへ行く。そして、大森を「神」と呼び、大森への愛を「宗教みたいなもの」と表現する。さらには、「フェミニズム的だ」と言う人もいる。

私もその力で引き寄せられた1人だった。

私はバイセクシュアルのトランスジェンダー女性だ。大森に出会ったのは大学生の頃で、今は大学の卒業を目指しながらセックスワークをしている。そしてフェミニズムについて勉強中の身だ。

この寄稿文では、大森が私自身を含む、多様な人々を普遍的に救っていることを踏まえて、彼女の表現が「フェミニズム的」であるということと、一部のフェミニズムとの摩擦、そして彼女の表現にフェミニストとして学ぶところについて書きたい。

「ピンク」を女の子に取り戻す 

大森は女性やマイノリティへの関心が高く、その姿勢が歌にも現れている。その結果、歌を聴いた人たちは「自分のことを誰かが歌ってくれている」「自分のやりたいことを後押ししてくれている」と感じ、救われた気分になるのだ。

例として、彼女の歌から3つを紹介する。

『GIRL’S GIRL』の歌詞から伝わるのは「私は誰かのためにかわいくなるのではなく、私のためにかわいくなるのだ」、 「母親にもかわいくなりたい欲求がある。母親らしさを押し付けて社会の犠牲にするな」 といった怒りだ。

誰かに選ばれたいわけじゃない
私が私を選びたい
(中略)
可愛いまま子育てして何が悪い
子供を産んだら女は母親って生き物になるとでも思ってんの
(中略)
全てを犠牲にする美徳なんて今すぐ終われ

(大森靖子『GIRL'S GIRL』)

『ドグマ・マグマ』の歌詞には、社会的に関心を得られにくいマイノリティなど個々人の特殊性を無視して、みんなで心を一つにしようと求められる風潮への抵抗が込められている。

むかしむかしあるところに男と女とそれ以外がいました
むかしむかしあるところに白黒黄色それ以外がいました
むかしむかしあるところにYESとNOとそれ以外があるのに
いつもいつもことあるごとそれ以外はなかったことにされました
(中略)
心を一つなんて ふぁっくYOU

(大森靖子『ドグマ・マグマ』)

『マジックミラー』の歌詞では女の子らしさが都合良く弄ばれることへの苛立ちが込められている。

どうして女の子がロックをしてはいけないの
(中略)
モテたいモテたい女子力ピンクに
ゆめゆめかわいいピンク色が
どうして一緒じゃないのよ あーあ
汚されるための清純じゃないわ
ピンクは見せられない

(大森靖子『マジックミラー』)

大森は、「個の肯定をやっていかないとけない時代になっているので、そういうところを歌っていきたいんですよ。すぐ集団になっちゃうじゃないですか。それが運動になり、集団になり、弾圧が生まれていく。そこから、また分解したいんです。」(※1)と語っている。

大森がここで言う「個の肯定」とは、それぞれ全く違う生き方をしてきた1人1人の差異を尊重し、「他人と生き方が違っても、あなたはそれでいい」と受け入れる、という意味ではないだろうか。

大森は、自らフェミニストだと名乗るようなアーティストではないが、自身の女性としての経験を歌にしたり、「個の肯定」を貫いたりした結果として、歌の内容がフェミニズム的な内容になっているケースがいくつもある。

たとえば、先ほど挙げた『マジックミラー』では男にモテるための女子っぽいピンクと自分がかわいいと思うピンクの色合いが微妙に違うことを嘆く歌詞がある。こういった、自分らしく生きようとすると、社会から求められる女の子像から外れてしまうという葛藤は私にはフェミニズム的に見える。

大森は自分の好きな「ピンク」で生きたいし、自分以外の女の子にも「ピンク」を取り戻して欲しいのではないだろうか。

また、大森は#Metoo運動に対する見解として「それぞれのケースがあって、それぞれの感じ方があるのに、「#MeToo」という言葉で一括りにされてしまうことには違和感がありますね」(※2)と語っている。

言うまでもなく、筆者は多くの性犯罪被害者の方々がこのハッシュタグの連帯によって声を上げることができたと考えている。しかし、「個の肯定」を重視していることから、「女性」をひとまとめにしたくないという大森の主張にも、フェミニズム的な要素があるように思う。

そういうフェミニズム的な部分に注目してみると、大森の表現には、第三波以降のフェミニズムとの共通点を見いだせる。

それは、「女の子らしくあることの肯定」(※3)、「ライオット・ガールムーブメント的な怒りの表明」(※4)、「インターセクショナリティへの意識」(※4)だ。

先ほど抜粋した歌で言えば、女の子らしさの肯定と怒りの表明は『Girl's girl』に現れている。また、「個の肯定」を重視していることから、「女性」をひとまとめにしないで個々人の差異を重視するインターセクショナル・フェミニズムとの親和性が高いと言える。

フェミニストを自認していない人をフェミニストと呼ぶことの是非が問われていることをふまえて、私は大森をフェミニストとは呼ばないが、少なくとも彼女は「フェミニズム的な考えを持っている人」である。  

フェミニストとの過去の衝突の理由

「フェミニズム的な考えを持っている」、いわば括弧付きの「フェミニスト」である大森だが、フェミニストとして活動している他の人々と軋轢がなかったわけではない。実は大森は、銀杏BOYZの峯田和伸との対談(※5)において、アンチフェミニズムともとれる発言で炎上している。

対談において、大森は、アイドルなどの女性芸能人が活躍していることに絡めて「今は女子が元気ですよね」と言われることに違和感を表し、結局のところアイドル業界も男性が主体となって作っているに過ぎないことを指摘している。それに対して峯田和伸は、女性自身が主体的に楽しめる状況になるように、大森に「私でもやれるんだよ」と見せてあげて欲しいと語る。

その言葉への大森の答えが、「うん。でも田嶋陽子的なのはイヤですよ(笑)。ああいうのがやりたいわけじゃないです。女性が社会運動すればするほど女性が不自由になっていくんですよ。だからあれとっととやめてほしくて。だってもともと自由なんだから。社会と関係なく自由でいればいい。世界は楽しいじゃん、ってずっと思ってるんです」というものだった。

田嶋陽子といえば、テレビ番組への出演歴もある有名なフェミニストである。そして、このコメントは、「田嶋陽子的なの」とは一体何を指すのか、「社会運動」とはどんなものを想定しているのか、「(女性は)もともと自由」というときの自由とは何を指すのか、そういった点が曖昧であり、人によってはフェミニズムに対してかなり敵対的と捉えられる内容になってしまっていた。

こういったことが要因となって、大森はフェミニストから批判されることになった。

なお、大森は後に、ユリイカのインタビュー(※6)で、女子を「女子だから」評価するということへの違和感をうまく言語化できず、ミステイクで「女性の社会運動が女性を不自由にする」と言ってしまったと釈明している。

また、自分の方が「女の子に力を与える活動をしている」という自負があったのに、「フェミニスト界隈から袋叩きに遭った」ことにかなりのショックを受けたという。

確かに、大森の対談における発言は不用意だし、今に続く日本のフェミニズムの歴史に影響を与えた田嶋陽子のやり方を安易に拒絶しているように見える。

それに、大森の「(女性は)もともと自由」という発言には、「性差別されたくないなら自力で這い上がって自由になればいい」といったような、どこかマッチョな雰囲気を感じる。這い上がる手助けに手を差し伸べはするが、「そんなこと言われてもできない」と考える人に対しては冷淡であるように見える。

 ただ、ひとたび背中を押されれば頑張れるようになる人たちにとっては、大森の思想はとても親しみやすく、実際にエネルギー源になってさえいる。そもそも、こういったマッチョな考え方は他のフェミニストの中にも見られるので(たとえば、女性が主婦になることをマイナスに捉え、社会進出を強く推進するフェミニストなど)、大森特有の問題というわけでもない。

そのため、この事例をもってして大森がフェミニストと対立する存在だとは言えないのだが、大森には「袋叩きに遭った」と表現されるほどに熾烈な非難がなされた。大森が若い女性たちに与えた影響は、そういった好ましくない一面だけを見て全て無視したり否定していい程度のものだろうか。私にはそうは思えない。

セクシュアル・マイノリティから見た「大森とフェミニズム」

私はフェミニズム界隈に居心地の良さを感じていた。そしてまた、大森の歌にも同じものを感じていた。今まで大森とフェミニストの軋轢を語っておいてなんだが、大森を知って間もない頃、この2つは私の中では似たようなものに感じられたのだ。

ほとんどが女性で構成されたフェミニスト界隈と大森のファンたち、この中にいるとき、私は生まれたときに押しつけられた性別のことを忘れられた。セクシュアル・マイノリティは当然のように観測範囲内にいて、仲間意識をもって迎えられていると感じた。

ただ、あるときから気づいた。私の見ているフェミニズムはどうやらフェミニズムの一部でしかないらしく、どうやら私のような人(セクシュアル・マイノリティ、特にトランスジェンダー)を歓迎していないフェミニストもいることに。

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悲しいが、まだ一部の人たちは、「女性であること」以外のマイノリティ性について曖昧な把握しかできていない。当事者として体験していないマイノリティ性は、意欲的に知りたがらないと分からないものだ。

そんな中、大森は自らが他の人とは違うと感じた経験(※7)や、個人を尊重したいという思いから様々な表現をしてきた。それはフェミニズム的には問題があるときもあったが、「放って置かれている」と感じていた人々にとっての希望となった。

フェミニズムはマイノリティを排した運動であってはならない。なぜならマイノリティの中にも女性はいて、そのマイノリティ性と「女性であること」が絡み合って生じた差別に苦しんでいるからだ。大森が女の子たちを救えたのは、若者に馴染みのある音楽を使ったからだけではない。意識的かどうかはともかく、そのマイノリティ性ごと救おうとしたからでもあるだろう。

既にそういったマイノリティ性への意識が強いフェミニストの人たちについては何も言うことはない。しかし、そうではない人たちは、自分の経験の外にあるできごとを無視しないで欲しい。大森がしばしばしてきたように、自分以外をよく観察して、相手を肯定することから初めて欲しい。これは当事者を大切にする考え方とも通じるものである。

注釈
1.大森靖子 “伝えたいこと”ではなく“個の肯定”、『クソカワPARTY』に綴った超歌手・大森靖子の生き様
https://spice.eplus.jp/articles/198725 
2.【インタビュー】大森靖子、ニューアルバム『クソカワPARTY』に込めた思い「最もクソみたいなものを"カワイイ"として演出したい」 https://trendnews.yahoo.co.jp/archives/573043/
(引用部分全文を読まないと意味が分かりにくいので、実際に読むことをおすすめする)
3.北村紗衣「波を読む 第四派フェミニズムと大衆文化」『現代思想 2020年3月臨時増刊号 総特集◎フェミニズムの現在』,青土社,2020
4. 藤田和輝「インターセクショナル・フェミニズムから/へ」『現代思想 2020年3月臨時増刊号 総特集◎フェミニズムの現在』,青土社,2020
5.大森靖子×峯田和伸(銀杏BOYZ)対談 https://natalie.mu/music/pp/oomoriseiko
6.『ユリイカ 2017年4月号 特集=大森靖子』,青土社,2017
7.大森はレイプサバイバーであり、その体験から「私はこの子たち(クラスメイト)とはまったく違う生き物なんだ」と感じていた。出典は以下。
「小6のときレイプされて。そのとき車のなかでそのおっさんが......って歌っていた」大森靖子が激白した衝撃の半生 https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_2132/

執筆=白田シノ
画像=Unsplash


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