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番外:気持ちと言葉

他人の気持ちはわからない

うつ病になってから改めて認識させられた感覚です。

あえて感覚と言っているのは確信が未だにないからです。

普段、曹洞宗の僧侶である南直哉氏の「恐山あれこれ日記」というブログを拝読しており、私の感覚を表現していましたので以下、僭越ながら引用させていただきます、

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依頼されて、何らかの思いのある方と面談することがあるのですが、そういう時に、特に若い人からしばしば言われるのが、

「そうです、そうなんです、それが言いたかったんです」とか、

「どうして私の気持ちがわかるんですか?」とか、

「あなたに言われて、やっと自分の気持ちがわかりました」などなど・・・。

 実を言うと、私は相手の気持ちがわかっているのではありません。だって、他人ですから。想像しているだけです。想像して、相手の言いたいことはこんなことかな、と思うわけです。

 こういう相手と話しているとわかってくるのは、自分の気持ちを他人に語る基本的な言葉の力が不足していることです。だから、こちらが想像して、こんなことを言いたいんだろうなと、必要そうな言葉を渡してやると、まさにその言葉が相手の気持ちの輪郭をはっきりさせるわけです。

 すると、こちらは言葉の補助をしただけなのに、そういう言葉を提供できるのは、自分の気持ちがわかるからだろうと、相手は思うらしいのです。

 現代の若い世代は、SNSなどで、膨大な言葉をやり取りしています。私などには、それが言葉の大量生産・大量消費の経済活動のように見えます。すると、その「市場」からは、厄介なもの、難しいもの、否定的なもの、苦しいものなど、「売れない」言葉は流通しにくく、排除されていくでしょう。

 そうでなければ、そういう言葉は、単純なのに不明瞭な断片と化して、地下に潜って方向を失い、ただ渦巻くことになるように思います。

 しかし、「自己」という実存には、まさにそういう「売れない」ことを、必要な時に確かに明らかに他人に語る言葉が必要なのです。その言葉が萎えるのは、深刻な危機と言えるだろうと、私は考えます。

 ただ、最近思うのは、この状況が、どうやら若い世代に限らないらしい、もっと上、中高年といわれる世代にも言えるかもしれない、ということです。

 彼らの場合、言葉の力の不足というより、自分の「切ない」状況にきちんと向き合い、考え、最後にそれを言葉にするだけの、時間と余裕がないのです。そんな「非生産的」なことをしていたら、「市場」の「競争」に負け、「レース」に後れるからです。

 この状況は、若い世代同様、実存を蝕むでしょう。崩れるとき、言葉と実存は共に崩れるのです。

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長くなり申し訳ありません。

私たちの存在はいかに脆く、危ういものであるかを感じざるを得ません。

自分自身がわからない実存が、他人という実存を理解できる日がこないままこの世から消えることが当たり前の世界で、確かなものなどないと思うのでした。

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