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長生きについて考えさせられること、長生きはしたくない

先日、強い心の痛手を受けて故郷に帰り、久しぶりに小学校の
一年生の時からの幼馴染みと会って、あれこれ話をしました。
とりわけ話題になったのは、世間で喧伝される「人生100年」とか
「健康長寿」とか長生きを讃美することについてでした。

これはあくまで、私たち2人の価値観であることを、ここに明記しておきます。
2人とも、還暦前半ながら、幸い?見かけはかなり若く見えるけれど、
やはり生物学的な衰えは始まっていて。
例えば、私はいまだに、視力検査をすれば1.0前後あるけれど、老眼で、
メガネが必要になってしまっています。
彼女も、大きな不自由は最近ないけれど、体のもともと弱いところに、
不調が出始めたとのこと。
これから年齢が進めば、もっと不便になっていくことは想像に難くありません。

そして、この年齢になると寂しくなるのは、櫛の歯が欠けるように、
同級生の訃報をぽつぽつと聞き始めることです。
これがなんとも堪えるのです。
長生きをして、同級生もすべて他界してしまった世界で生きるのは、
できることなら避けたいな、というのが本音でもあります。

2人で話は弾んだのでした

そして何よりショックだったのは、日本での最期を迎えるときの医療体制における価値観でした。
こんなに無理やり生かして、長生きをさせられるのかという医療の現場に関する書籍を読んで、言葉を失ってしまいました。
「死は敗北」そして、家父長制が色濃い世代では、「自分が親や舅、姑を死なせたと言われたくない」ということで、とにかく死なせないという実態など、読んで暗澹たる思いにさせられました。

多くの現場に立ち会った、この2人の医師の著作を読んだとき、私は考えさせられてしまいました。

一方で、私の父は、90歳の半ばで他界しましたが、終始、前向きで、
「お父さんは100歳まで生きるぞ」
と、頭もはっきりして、不動産の仕事をこなし、新聞を読み、
健康に気をつけて前向きでした。
本人の見えない努力、心の持ちようがあったとは思うのですが、
でも、父は例外的だと私は、思っています。

この書籍を読むと、もう死にゆく年齢なのに、いざ命の瀬戸際になった時、
医師から「死なせてもいいですか!」と強く言われると、家族は、
体が膨れるような点滴、人工呼吸器を外せない実態も書いてありました。

寿命は自分で選ぶことはできないけれど、終末期に際しての延命に関することの拒否は、家族が困らないように箇条書きにして明記したおかなければいけないことを知りました。
世間で喧伝される「長生き」ということについて、私は改めて考えさせられたのでした。


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