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ししおのつぼやき14 眠たくて、風景論外

 短時間再任用の給料があまりに少ないので三連休で高すぎる飛行機ではなく少しでも節約しようと東京まで新幹線で往復した。Express予約だと指定席でも片道20,110円。変更も簡単、改札も簡単。成田までPeachで行くほうがそれよりちょっと高いだけで成田~東京の移動含めても新幹線よりは時間かからないのだが、片道5時間乗りっぱなしのほうが眠るにも本読むにも集中できていいと思ったから。ただ脊柱管狭窄症にはよくないのだが(実際膝の痛み、鼠径部と痔の手術の跡の不快感はかなりひどかったがこのせいかどうかわからない)。本は少し読めたけど意外に往復ともほとんど眠らなかった。満席で隣にすわったガキが歌い続けるので怒ったらどこか(離れた席の親のところだろうけど)行ってしまいまもなく大人が座っていた。
 午後イチで行くとこがあったので6:45博多発にしたのだが、5:30の目覚ましセットしたのに4:30くらいに目覚めてしまい、車中でも眠気解消できなかった状態で、東京都写真美術館の「風景論以後」展関連の映画をみるのは問題であった。何しろ観衆サービスゼロで見てもまったくおもしろくない場面ばかりだしストーリーも展開もないような映画なので、睡眠が足りていても眠ってしまうような映画ばかりだから。

 〈グループポジポジ〉の『天地衰弱説』『天地衰弱説第二章』は大島渚の『東京战争戦後秘話』との関連があるだけでそれ自体が「風景」映画ではないが、どちらも中流階級で余裕のある高校生が表現したいものは何もないのにただ映画を作りたいいうだけの作品で(それって「つぼやき9補足2」で書いた今の福岡の演劇や美術と同じではないか)一部眠ってもまあいいやと思ったが原將人の『初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)』(以下『初国…』)はデジタルで一画面にしたもとはマルティプロジェクションで、少し重なるふたつの画面に風景と作者の映像、ぎごちなくてもとめどなく垂れ流される作者のナレーション、あってもなくてもいいような凡庸な短歌という視覚・聴覚・言語情報がほとんどとぎれることなく続くので、補聴器をつけていても言葉が聞き取れない(聴覚情報処理障害だと思っている)うえに老化で脳がついていけないので個人映画にしては長尺(108分)が拷問のようであった。ただすぐれた芸術作品でも拷問級は少なくない。短歌でふれられるジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』もその例だ(『フィネガンズ・ウェイク』だと拷問を通り越しなぶり殺される)。『レ・ミゼラブル』の余談(25%くらいあるらしい)もひどかったが。いまどきの若者なら絶対早送り(飛ばし読み)しているだろう。
 しかしふたつ(実はみっつ)の疑問が消えない。

疑問1 
『初国…』は北海道から鹿児島までのロードムービーなのでその移動の過程で見いだされる「風景」の映画とはいえるが、展覧会のテーマは「風景」でなく松田政男が提唱した「風景論」なのだから、この作品はそのテーマには合わない。なぜなら、私の勝手に理解した、日本全国津々浦々を国家権力が覆いつくしたという「風景論」からすれば、「風景」は自己を超える何ものかの権力が作り出し変容させた「対象」であって、個人の主観・視点を超え(滅却し)、むしろ(足立正生がいうように)個人が見るのではなく風景によって個人が見られるという倒立を意味する(都市を「見る」のでなく都市に「見られる」という逆転は興味深いことに足立が『美術手帖』で対談した〈ゼロ次元〉の加藤好弘も言っている)。しかるに、『初国…』では作者が映像か言葉で出ずっぱりで、映された風景は8mmの粗い画質のうえ2画面がつなげられることでさらに断片化され、風景が観察者(=作者)を見かえすことはなく、観察者がちらりと横目で見ているものにすぎない。そもそも映画全体の設定からして、行き当たりばったりであれ漠然とであれ目的意識をもった作者の話であって、大島渚の『少年』、足立らの『略称・連続射殺魔』であれ、また展示されていた今井祝雄の赤信号写真、ロングショットとはいえまぎれもなく人間が存在する笹岡啓子の写真や崟利子(たかしとしこ)の映像とは異なり、原作品にはほとんど人物が登場しないし、最後に語られる自殺した女子高生も、映像作家としての作者とのかかわりで語られるだけだ。要するに、崟利子のように一方通行であっても遠くに見える人々へのダイアローグへの希求があったり、高嶺剛の『オキナワン ドリームショー』のようにしばしば人物が撮影者(=高嶺)に語りかける(音声はなしだが)という、「風景」のなかの「人物」との関係が、原將人の『初国…』にはまったくないのだ(ひょっとして私が眠っているところに集中してあったのかもしれないけど)。『オキナワン ドリームショー』でスローモーションが多用されるのも、人物の存在を文字通り「前景化foreground」するためだろう。(建物は動かないし車などの無生物の動きが焦点にはなってない。)さらにいうと、トークでは風景のなかに時間を内包するというような話があったようだが、『初国…』の膨大な風景のショットには歴史性や時代性を感じさせるものは非常に少なかったと思う。なにしろディテールが見にくい風景が小さく切り取られかつめまぐるしく切り替わっていくのだから。劇映画と比べる無理を承知でいえば、ストーリーや人物設定のなかで歴史性(階級を含む)が随所に現れる大島渚の『少年』には確かにそのような「風景」があった。(なお私は上映会ではなくアマゾンプライムで予習したのだった、若松孝二の『ゆけゆけ二度目の処女』はDVDで予習していった。)
 これと関係した問題として、「風景」という言葉の問題がある。歴史的な「風景論」を扱うのだから勝手に変えるわけにはいかないのだが、究極の「風景」映画である『略称・連続射殺魔』でも、映されたのはほとんどが都市の一部であって、英語ならlandscapeでなくcityscapeというべきなのだ。上記のように、展示でも上映でも、私の見た限り、自然(land)の景観が主となる作品はほとんどないのだから(清野賀子[せいのよしこ…読めん]の写す野原さえもすべて人工的なものだ)。だから志賀重昂のいう「日本風景」と同じ「風景」といっていいのか。むしろフランス語のpaysageすなわち国/国家/国土(pays)を作る、という「造園」「景観づくり」を表す言葉のほうが日本の1970年前後の批評理論における、国(家)paysを(が?)造作した「風景」にふさわしいようだ。あと原氏もいうように「風景」は「移動」の過程または結果によって「見いだされる」なら、常に「発見」(違和感、驚き、感嘆を含む)される、定住者・都会人の意識の反映であるということから「風景」は近代的な主体が見出した人造物なのだ(柄谷行人?)。このあたりもうちょっと緻密に考えないと、1970年前後の「風景論」を近年の作品に応用するのは破綻をまぬかれないだろう。といいつつ、哲学の素養がない私にはこれ以上うまく言えないのだけど。

疑問2
 さて第二の疑問。これは批評の問題ではなく好みの問題だろうが、私は原の『初国…』作品も、トークでの彼の発言や近年の活動にはまったく共感できず、そもそも『初国…』が伝説的傑作で天才の作品とはとても思えなかったのである。作曲から歌から短歌まで、表現意欲あふれる才人だとは思うが、結局自分を語ることに尽きてしまい、同時代の他者や生活環境(そこには政治的状況も、他のクリエイターとの協働・影響関係も含む)が見えてこない、徹底したモノローグ、悪くいえばナルシシズムしか感じられなかったのだ。彼の他の作品がひとつも見てないのであくまで『初国…』の印象。そんなエゴイズムは上述のような「風景論」にはふさわしくない、という批判をしたいのではなく(それこそ黒澤明が嫌っていた、「赤を描けば青でないと批判され、青にすれば赤ででないと言われる」(うろおぼえ)と同じ)、社会の多様な個人・集団との出会いや衝突から生まれる作品のほうが私は好きだということ(もちろんそのほうがすぐれていると個人的には考えている)。だからジョイスの『ユリシーズ』をひきあいに出してほしくなかった(まだ元ネタのホメロスの『オデュッセイ』なら許せる)。『ユリシーズ』こそ、『ゴールデンカムイ』の「この人、誰!?」という謎の人物みたいなのを含む、レオポルド・ブルーム(世俗的ユダヤ人、夫、父)、スティーヴン・ディーダラス(知識人、子)、モリー・ブルーム(妻、母、女神)をとりまく無数の他者として猥雑な都市のディテールこそが主人公といってもいい言語実験であり、拷問のような言語の洪水の果てに「yes」で終わる壮大なドラマだったからだ。唐突な例かもしれないが、夏目漱石は『猫』『坊ちゃん』のモノローグ(吾輩)から、身近な他者である妻や社会的階層の異なる人物を含む『明暗』のポリフォニーに長い時間と苦悩を経てたどりついたところで亡くなったのだった。という理屈よりも、どうしても私は1960年代の愚直なまでに「美術」の限界を超えていこうとした作り手を基準にしてしまうので、1970年代的な「もの作り」に収斂される自己満足的・ジャンル自閉的な「作品」には物足りなさ、さらには憤懣を禁じ得ないのである。何しろ何回も眠っているので大事なせりふを聞き逃したようなので作品をまっとうに理解したとはいえないのだが、表現のスタンス自体は誤解してないと思う。1980年代に日本語で定着したパフォーマンスも、「芸術」として公認された範囲内でしか展開しなかったのではないか――いやもっと悪いことにカタカナの「アート」として公認されてしまったのだ。
 一見いいかげんな〈グループポジポジ〉の後藤和夫にも(後年にベトナムからパレスチナに関わるような)政治意識があったということだが、やはりゲリラ活動に参加した足立正生や、商業映画のなかで徹底した反権力を貫いた若松孝二とは比べようもなく、「退屈」というのはやはり生活のための労働で退屈する余裕もない人や、抑えきれない表現衝動から素材を貪欲に渉猟していく作り手の言うことではないだろう。
 だから展示と上映(上記のほか相原信洋『風景の死滅』しか見てないが)全体で突出していたのは、展示室で映されていた『略称・連続射殺魔』だった(この作品はVHS持っているのでここでは驚くべき高画質を確認しただけだが)。それは「風景論」のテーマを代表するからだけではなく、また永山則夫の予備知識に依存することなく、カット、編集、そしてフリージャズの音楽だけで十分な吸引力があるからだ。集団制作であったこともこの作品が超越的な個を超えることに貢献したかもしれない。他には今井祝雄の赤信号映像が意外によかった。私も記憶の底にある70年代の都市風景に見入ってしまう。あと文句なくカッコよかったのは中平卓馬の写真。これも「風景論」から逸脱すると思うけど。

 『初国…』はおそらく個人映画の古典的作品のようなのでこれまでさんざん論じられてきただろうから過去の論点を知らないでこの作品を批判することには批評文としての意味がない。だから「風景論」という枠組みへの違和と、個人的にはこの作品が好きになれない、というだけの話である。世間で高く評価されているらしい作家とか作品がちっともいいと思わないのが常なので根本的に価値観が異なる人たちに対して説明したりするのも無駄なのでひたすら自分はこう思うとだけいうのがこの「つぼやき」なのである。

 で、第三の疑問=「風景」はいかにして克服されたのか?(あ、松田政男の『風景の死滅』買って読んでなかった。)でも 今どきこんなの読む人はほとんどいないだろうからどこかで当時の議論にふれてほしい(図録のエッセイでも引用文でもふれられていない)。最近の美術や映像でその問題はexamineされたのだろうか??? 

とにかく……眠かった。

(10/13一部修正)