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ししのつぼやき9 補足2 さらに狭かった身内演劇

補足1」でふれた福岡演劇界の記事はすぐに見つかったが驚いた。
朝日新聞 2006年4月27日夕刊 長友佐波子「福岡演劇『半径5メートル病』
半径15mでなく5mだった! 直径でも10mしかない! 大きなおうちなら家庭内完結、小さなおうちなら外まで行くけどせいぜい家の前の道までしか出ない! 
この記事より引用(デザインと写真と文章すべて著作物なので紙面画像の掲載はできません。某紙では公的機関の利用でも高い料金をとった)。
「かつて演劇は社会と向き合う道具だった。時には社会に切り込む武器でさえあった。しかし今、福岡の若い舞台人には、どうもそうではないらしい。自分の半径5メートル以内のできごとを素材に、もっぱら等身大の日常を描くことにその可能性を閉じ込めているのだ。」
「60年代から演劇を見てきて、インターネットのサイト『福岡演劇の今』を主宰する薙野信喜さんは、福岡の若手を、『表現はしたい。でも表現したいものはない』と見る。(中略)薙野信喜さんは、福岡のぬるま湯的な演劇事情が関係しているとみる。東京に比べれば、生活費もかからず、会場代も安い。簡単に演劇を続けられる。だから地道な演技の勉強も、他の劇団を見ての研究もしない。1回の公演にかけるエネルギーや深みが弱いのだ、と。」
 これで終わるとあんまりだからか、長友記者はそういう演劇でもすそ野を広げたこと、また「半径5メートル」でも魅力的な芝居はあるとしめくくるのだが、さて、17年も経過した今、福岡の演劇界は変わっているのだろうか。
「5m派」のいうことは予想できる。社会と向き合えとか戦えなんていうことこそ抑圧なのだと。デモやってるほうがテロリストでしょ?とか。では問いたい、君こそ新自由主義と情報産業の奴隷ではないかと。

美術については世界の巨大都市のような社会的緊張も見て見ぬふりができるし美的・知的な鍛錬も不要なのに住みやすくて活気があるようにみえる「ぬるま湯的」な都市が共通なのだから、根本的には変わってないといえるが、本来的に個人による「美術」と、集団制作かつ発表にも社会性が必要な演劇との違いは大きいし、さらに17年前と現在を比較するにはいろいろな材料があって簡単には判断できない。ただ当時の福岡にはほぼ「売れる」美術家はいなかったのに、ここ5年くらいか、福岡でも「売れる」作家が数人とはいえ存在するし、すぐにつぶれると思ったアートフェアは続いて市の支援まで受けるし、東京でさえもいない買い手が福岡にいるわけないと思っているのに民営ギャラリーがずいぶん増えている。1990年代に福岡アートシーンに「ミラクル」を起こしたミュージアム・シティ・プロジェクトも、県立美術館「アートの現場」も、三菱地所アルティアムも、三号倉庫も、ギャラリーとわーるも、MoMA contemporaryも(活動は続けているらしいが)、紺屋2023も、そしてアジア美術展とその後身の福岡トリエンナーレも、すべてなくなったのに。「ぬるま湯」がさらにぬるくなって「激ぬる」になっているのだ(「激ぬる」カレーは吉田戦車ネタ。)
 演劇話との関連でオチをつければ、福岡で今目立った活動をしている美術家も新興ギャラリーのほとんどもまた「半径5m」と大差ないということだ。ただ「半径」の意味は対象とするコミュニティの大きさではない。作品世界そのものがそれくらい小さいということだ。だから多様な観衆にも、世界で古今東西の芸術に接して目が肥えたコレクターや歴史と理論に長けたキュレーターや批評家にも、未来の観衆にも、届くわけはなく、ベストセラー本並に、5mならぬ5年くらいのスパンですぐに忘れられ、商業的価値も続かないということだ。もともと心底から表現したいものなんてないのだから、地域と時間を超えた深く遠い射程に作品が届くわけないのである。「すそ野」広げてもやっぱり10mくらいじゃないの?

 福岡が自分の街の文化を売ろうとするなら外国人向けに忍者ショーなんてやってる場合ではなく、商業的成功が実証された文化の誘致でもなく、そのくらいのグローバル&歴史的なスパンを考えて福岡オリジナルの文化の発信のための先行投資をしないといけない。ロンドン・オリンピックの文化プログラムに参加した美術家(たとえばアニッシュ・カプーア)は産業革命と帝国主義の膨大かつ粗暴な歴史を経て世界各地から集まってきたのだから真似ができるわけではないけど。でも「ドンキホーテ」でこんなもの福岡で買わんでいいと思う爆買いをしている韓国人を見ると、別にオリジナル文化もcivic prideも観光振興のためにはどうでもいいんだろうな。
(9/7改稿)