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ししおのつぼやき8 亀裂の舞踏

夏の休日にしか着れないド派手シャツを今年初めて着たら、ポケットに去年の夏に見た映画のチケットが入っていた。題名でまったく思い出せないので検索したらこれで
映画『ボイリング・ポイント/沸騰』公式サイト (cetera.co.jp)
もちろん見たことは覚えていたが、技術的によくできていてエンターテイメント性もあったのに中身はほぼ忘れていた。
 これを見たのは、80分の全編1カットという驚異の技術で知られるヒッチコックの『ロープ』(当時のフィルムでは不可能なので巧みにつないでいる)と同じ1シーン1カット映像に興味があったからだ。しかし『ロープ』は、技術的な離れ業にとどまることなく、殺人犯が語る、ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフと同じ選民思想(実はニーチェ)にも驚愕した。それでいて難解さはなく、ヒッチコック得意のサスペンスの楽しみはこれらの技術や過激思想によっていっそう高まるので、見事としかいいようがない。『ボイリング・ポイント』はいくらおもしろくても「だから何なんだ」となると見終わった瞬間から忘れてしまう。ちなみにこれも1シーン1カットで、
土曜の午後に - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画 
イスラム原理主義者による女性の抑圧を前面に出すなど、いかにも欧米人向けに作られた感はあっても、実際の事件に基づく切迫したリアリティ、テロリストを含む人間模様の奥行において、『ボイリング・ポイント』よりははるかに印象に残っている。
つまり1シーン1カットはサスペンスに向くということか。

 話がそれた。展覧会で見た作品、読んだ小説、見た映画も、かなり感動したものであっても、『ロープ』などわずかな例外を除いてすさまじいスピードで頭のなかから消されていくことの恐怖感からこの書き物を始めたのだった。仕事に支障も起こしてきた健忘症(というか覚えられない)が加齢で加速していることがわかっていた時点で、韓国映画『私の頭の中の消しゴム』を見て、若年性認知症の女性の「愛も幸福も忘れてしまっては意味がない」という言葉に深い衝撃を受けたのも契機となった。(ただこの女性は超お金持ちの娘で最後はいかにも金かかりそうなめぐまれた介護を受けているしハンサムな彼氏も建築現場の労働者だったのがてやけにあっさり資格をとって建築家になってしまったとか、都合よくできすぎているので感心しないのだったが)
 そこで自分の記憶のためにこまごま接した文化の記録をつけようというのがこのNOTEでの書き物の第一の動機である。いくらいい作品を発表しても美術批評が皆無でお友達どうしのなれ合いのようなディスコース(論議)しかなくてももう私には福岡の美術への責任感なんかないからどうでもいいのだけど、いい仕事をした人たち(作り手だけでなくその企画者も)にはエールを送りたいという気持ちもあった。

 でやっと今回の本筋に入る。
アトリエ連続公演 | 舞踏靑龍會 Butoh Seiryukai
 舞踏家・原田伸雄率いる舞踏靑龍会の公演は多数見てきたが、舞踏ほどの猛スピードで記憶から消え去る文化経験は他にない(ただし演劇も音楽もほぼ行かないのだが)。2回くらいメモしたことはあるが、公開されるわけではないので(つまり自分でも二度と参照しないので)、このNOTEが適切な場ではないかと思う。

2023 アトリエ連続公演「肉体の四季・舞踏曼荼羅」サラマンダー頌
8月27日(日)
舞踏青龍會アトリエ
(トップの写真は左から下記の出演順。右端は原田伸雄)

第一部
○ 木村由  ダンス(東京) 「silent dance」
黒いワンピース、音なし。手に持った鈴を落とすことから。それぞれの動作はしっかりしており破綻はないのだが、どこを見ても、舞踏ならさんざん使われてきたボキャブラリーのつなぎあわせにしか見えない。衣装・音・装置に頼らないむきだしの踊りだからこそ、センチメントをもっと排して独自の動きを開拓してほしい。

○ Miyuki 舞踏(東京) 「花酔」 
赤いドレス、音楽あり。回転するところなど西洋舞踊の素地があるのかと思うが、それに亀裂をもたらすはずの狂的な動きもまたステレオタイプではないか。見ていて悲しくなった。この人は木村さんよりもさらに自分の舞踏言語をまだ持つことができていない。亀裂なしでも十分もたせる力があってこそ亀裂が生きるのではないか。

○ 松田美和子 舞踏(福岡) 「戯(たわむれ)」 
ボロボロになったキモノ、音あり。(どういう「音」かというのは私は言葉にできない) 最初の止まった瞬間から、これは前二者とは格が違うと思わせた。舞踏的といえばいえるが、パターン化しているようには見えず、それぞれの瞬間に緊張感がある。音楽は何回も変わるが、はっきりしたリズムがあるのは舞踏では(私には)珍しかった(原田氏によるシンバルや声の介入はやりすぎだが……)。しかし夏も終わり近いとはいえ酷暑の日に狭い空間で扇風機だけの観客つめこみで頭痛の前兆の眠気が始まり、最後まで見れなかったのは残念。


第二部
○ Margherita Tess 舞踏(イタリア) 「切れ目」
山羊?の仮面(紙製だけど妙によくできている)を後頭部にかぶり麦穂のようなものを手にして、白い紙に向き合ってはじまる。音あり。仮面と麦穂というattributeが西洋古代の儀式のようだが寓意はわからない。筋肉と骨格を感じさせるはっきりした動き。非日本人という先入観で見てしまったかも…

○ 舞踏土佐派(大村万朶&中山直一) 舞踏(高知) 「猿と人間の間」
大昔のホームレスのようなボロボロの衣装の男女のかけあい。男が突き出た腹をたたく、女が男をいじめるなどコミカルな場面が続き、妙に「芸術的」なイタリア歌曲?との対比が奇妙さを増幅させる。演劇的でもあり見飽きなかったが、なんだか唐突に終わってしまった感じがした。こっちがぼんやりしてたのかな。暑いし。

○ 高砂舞踏協同組合(きよこ&マサト)  舞踏(兵庫) 「ドリームキャッチャー 2023」
花飾りの白いふわふわした冠、白い半透明の衣装で、男女が無表情に踊る。新興宗教の儀式のようだ(特定のカルトのことではなく私の偏見です)。いささかの破綻も停滞もなく悠然と動き続ける教祖に、なんとかくらいついていこうとする教団の事務局長という感じ(大学時代に読んだ高橋和巳『邪宗門』のイメージか? いや私の偏見です)。特に異様なことをしていないのに天国的な情緒を生み出す力はすごいと思うが、個人的には、完成度の高すぎる教祖の踊りに俗人の事務局長が批評的に介入するというほうがおもしろいと思うし(上記の舞踏土佐派の中山直一がお腹パンパンするとか)、それこそが「舞踏」なのだろうが、ご法度なんだろうな。あれ、ゲーセンにありそうな「ドリームキャッチャー」ってタイトルそぐわないのでは。

 ところで上記の演目リストで木村由さんだけが「ダンス」で他はみんな「舞踏」。もちろん名前は「舞踏」であってもなくてもかまわない(「舞踊」でも「ダンス」でも「パフォーマンス」でも「儀式」でもいい)のだが、自己批判性のない、もっぱら「芸術」と化した自称「舞踏」はものすごくつまらない。山海塾は前にも見たが途中で眠ってしまい、最近のこれは眠らずにすんだのだが
山海塾「TOTEM 真空と高み」世界初演 | 北九州芸術劇場 (q-geki.jp)
頭が悪いのでストーリーはわからずただ「きれい」な舞台=「芸術」を作るものとしか感思えなかった。まさに「為すこと」が「抽象的労働」になり資本主義を支えるというジョン・ホロウェイの説そのものではないか。『革命』(高祖岩三郎・篠原雅武訳、河出書房新社、2011年)でうんざりするほど同じ話を繰り返し論旨がすすまないのはなんとかしてほしいが。
 ちょっと意味はちがうが、だいぶ前、某日本人による「コンテンポラリー・ダンス」(ソロ)を見ていて、あまりの凡庸さに見ていて気の毒になってしまった。音楽に『トリスタンとイゾルデ』なんか使うと凡庸さが際立ってしまうでしょう?(三島由紀夫の映画『憂国』でも使われていたらしいが映像に気をとられ意識しなかった……意外に三島はオペラでは(ワーグナーでなく)『カルメン』が好きだったとか。私も好きだが。話それまくり) タイ、台湾、韓国のダンサーの作品なら(好き嫌いを問わず)オリジナルな表現かもしれないと味わう(楽しくはない)ことができたのだから、現代日本人は「近代」というdisciplin(軍事教練からラジオ体操まで)により独自の身体性を失ってしまったのではと思うようになっている。ただ私が「コンテンポラリー・ダンス」を見たことがあまりに少なく、最上のものを見ていないからかもしれないが、学校教育課程にとりいれられたあまりに健康的で無難なパフォーマンスなんて、もう一生見なくてもいいや。
 まさにそのような学校教育では排除される、独自の身体性(「自」の解釈を問わない)を開拓したのが「舞踏」だと思うのだが、それは同時に、「芸術」に向かいながらそれをつきぬけた背後・深部・下部へと専行し潜航し穿孔していくもの――上記本でホロウェイのいう「亀裂 crack」をもたらすもの――であってほしいというのが「アダルトな革命芸術」を求める私の期待なのだった。そういえば「儀式には割れ目があんのよ」と言ったのはゼロ次元の加藤好弘だった。
 まだオチがありそうだがいったん公開する。
(8/28公開、8/29加筆)