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冤罪映画三連

しばらく書きたいことがなかった。これも特に書きたいわけではないし記録するほどの価値はないのだが、トランプとかマージャンでたまたま役ができたみたいなので。最近たてつづけに冤罪を扱った映画を見たのだった。

『正義の行方』 2024年
1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が殺害された「飯塚事件」を扱うもの。死刑が執行された今も弁護士らが再審請求をおこない、つい先日却下されたニュースがあったように、もし冤罪であるならそれはまだ晴らされていない。テレビのドキュメンタリーのようなまじめな作りだが、証言のあやふやさと誘導、DNA鑑定などの証拠の操作など、人間像を描くよりも犯罪捜査のおもしろさが印象に残ってしまう。まだ継続中の事件であるし、犯人とされた人物がすでに故人なので限界はあるのだろうが、ニュースとしては②③のような社会の暗部を象徴するようなものではないので、一地方の小事件といういうのを超えた広がりと深みが出せなかったのだろうか。3本のなかで唯一、マスコミ(福岡の地元紙)が後年に長大な連載で裁判の不備を追究し続ける使命感には感服するが、映画の元ネタになったと思われるその連載を読んだわけではないから、記者の問いかけが誰(何)に向かってなされたかがこの映画からはわからなかった。

②死刑台のメロディ Sacco and Vanzetti 1971年
映画音楽の巨匠らしいモリコーネのたった2本の特集上映だから「メロディ」なのかと思ったが、もともと「死刑台のメロディ」という邦題で、前に書いたようなあまりにひどすぎるタイトルだ。もちろん「サッコとヴァンゼッティ」という原題の人名だけでは日本人観客には意味不明なのでそのまま使う必要はないのだが、1920年に強盗殺人のでっちあげで死刑に処せられた「過激派」ニコラス・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの逮捕から処刑までを緊迫した構成で描くという内容をこの邦題はまったく伝えない。たしかにジョーン・バエズの圧倒的な歌声が最初と最後に流れるが、音楽が主の映画ではないし、マイルス・デイヴィスの音楽で有名な「死刑台のエレベーター」とまぎらわしい。なんといっても「メロディ」というのはいくらなんでもこの内容の深刻さと悲劇性からあまりに遠い。
 内容について。何より驚いたのは、この1920年代という、アメリカ大衆文化の黄金時代として知られる時代に、これほどすさましい反共と人種(移民)差別があったことだ。1950年代アメリカの「赤狩り」については知ってはいたが(「どうせマンガからでしょ」「はい、そうです… でも山本おさむの『赤狩り』は近来稀にみる力作だったと思います」)、この1920年代は(冷戦以前なのに)まるで戦前日本のファシズムと変わりがないではないか。
 ところで非常に気になったのは、サッコ&ヴァンゼッティのことを検事たちが「radical(s)」というのが字幕でほとんど「アナキスト」になっていたことだ。当時のこの英語の用法からして過激派=アナキストといってよかったのかもしれないし、「過激派」というと日本の全共闘運動末期の集団を思わせてしまうから避けたのかもしれない。劇中では爆弾を投げたりする活動家を含んでいるが、アナキズムが本来は平和思想である(と、被告も名言している)ことが誤解されてしまうのではないか。そもそもこの映画を見たのは、ベン・シャーンの絵で知られるこの事件の被告がアナキストであるという興味から見たので、よけい気になるのだった。しかもサッコ&ヴァンゼッティ救援運動は各地で巨大なうねりを引き起こしていたではないか。もしアナキズムが暴力での政権添付を求める運動ならこれほどの大衆的な支持を得られるわけないのだ。

『罪深き少年たち』 2022年
1999年に韓国・完州の小さなスーパーで起こった強盗殺人事件で少年3人が警察のでっちあげで有罪となった実際の事件に基づく。名優ソル・ギョング演じる刑事が真犯人を見つけ、被害者の娘と弁護士らと再審要求をするが、少年たちの罪状を捏造して出世した官僚らから様々な妨害、暴言と侮辱にあう。ネタバレはやめるが、いかにも韓国らしいヒューマンドラマ(たいてい家族愛に基づく)としてのカタルシスを意図したのだろうが……がまったく成功していない。悪役がいかにも悪役でしかない薄っぺらさが(実際そうであったにしても)ドラマを図式的にしている。①のような証拠つぶしのおもしろさも、②のような巨大な政治の力も表に出ないので、少年たち(ひとりは読み書きができない)、真犯人の若者たちという、社会の底辺に生きる人たちの生の暗さが重く残る。だからこそあのラストには説得力がなかった。

……で……それぞれ不満はあるがまあ見てもよかったのだったが(みんな2時間超の長尺も長さを感じさせなかった)あまりに当たり前のことを確認しないといけない。
これほど異なる時代・社会・地域で、それぞれ異なる背景・理由があるにしても、どうしてこれほどの、人の生命を奪い、生きていても人生を台無しにする冤罪が繰り返されるのかということだ。正当に裁かれ罪を免れたりまっとうに罰せられる例がほとんどなのでこれらはみな「例外」なのだろうか? いや、そうでないのでは、と思ってしまう。まったくチェック機能が働かず、迅速に処理をしたり栄達の手段とする悪行を避けられないのなら、それは警察とか裁判そのものの本質的かつ普遍的な問題ではないかとさえ思ってしまう。というとハンナ・アレントの『全体主義の起源』にあるテーマなのかもしれないが、読んでないのでわかりません。

それで思い出した、もうひとつ歴史に悪名高い冤罪事件の映画も見ていた。
1937年のアメリカ映画『ゾラの生涯』である。しかし驚くべきことに――ハンナ・アレントが反ユダヤ主義からナチズムへの展開を論じた(らしい)のに対して、この映画ではドレフュスがユダヤ人であることはまったくふれてなかったことだ。それを語らないとドレフュス事件の、現代のパレスチナ問題つながる重要性が理解されない(単にゾラを英雄視するヒューマンドラマになってしまう)のではないか? ゾラの小説は十分現代人にもおもしろく読めるし小説家がジャーナリストとして新聞トップに巨大フォントで「告発」したという「(作家とか小説家とかでない)物書き」としてのありかたに興味があって見たのだが。(なお最近になってユイスマンスのような異端作家もゾラの影響のもとから生まれたというのもおもしろい。彼の『彼方』はモノローグ連続や似たり寄ったりのキャラばかりで退屈極まりない作品だったが……)。
上記のマスコミのが主役となった①はもちろん、②でもしばしば新聞紙面が使われ、巨大な大衆運動を生み出すマスコミの力(および良心的な記者の排除)が現れていた。③では新聞やテレビの報道がどんな姿勢でどんな影響があったか気になるのだが、主人公の刑事を中心とするヒューマンドラマになってしまうと取り入れにくなかったのだろうか。

なんて書くとこんなシリアスな政治・社会問題を扱った映画ばかり見ているように思われるかもしれないが、ジョン・レノンを見たいというだけの『ジョン・レノン 失われた週末』とか、圧倒的に完成度の低い(笑1)そのくせけっこうエッチな(笑2)モンゴル映画『風雲の聖者』も見ているのだった。