見出し画像

たかが猫が死ぬくらいで。②


3/1

ご飯はご飯、忘れた頃に薬を飲ませる事にした。
食事は食事で、最近はほんの少量食べるのに30分はかかる。
食後なんかに投薬して、食事自体が嫌になられては元も子もないので、別の事として嫌な仕事を済ませよう。

今日の朝も、連れだって換気扇の下まで来た。
いつもと同じで、鰻が鳴いた後に獅子が鳴く。
「あなた、食べないやん」と獅子に言ったが、どうでも良さそうだった。

猫は、「ご飯ちょうだい」「遊んで」「撫でて」「うんこしたから掃除して」位しか望んでないのかもしれない。
気楽で、大それた事は望まず、毎日良く眠っている。
特に何も無かった昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続いて行けばそれで充分なのかもしれない。

獅子は今日も大暴れで投薬に抵抗した。
もう獅子を汚すのが嫌だったので、泡を吹くたびにティッシュで拭っていたら、薬はほぼティッシュに取られて無くなった。
口直し用に作ったおやつが入ったシリンジも盛大に嫌がり、こちらもほとんどティッシュに吸い取られた。

背中でぜいぜいと息をして、睨みを効かせながら長い事毛繕いをしていた。
口を開くポイントは見つけられず、薬で汚れたバスタオルは洗っても灰色が取れなかった。
気分が落ち込んだのでバスタオルは捨てた。

獅子は私を嫌いになって避けるかな、と思っていたが、薬が終わって落ち着くと、甘えてくる様になった。
お腹を見せて、犬みたいなポーズをする。
「ひどい事、しないで」と言ってるように見える。
その姿を見ると更に落ち込んだ。




3/2
投薬に失敗ばかりしていて、ちゃんと飲ませられない上に、食事の量も落ちている。
血を作らないといけない。
ペットフードの専門店に行き、「効率よく鉄分が取れる餌を下さい」と言うと、フリーズドライの豚の肝と鶏の肝を勧められた。
「犬用と書いてるよ」と言うと、猫に食べさせても問題無いという。
量に注意の説明を受ける。
他のレバーや肉系の餌、水分量も落ちていたのでウォーターファウンテンも買う。
帰ってフリーズドライをあげてみるけど、獅子は「なんだこれ」っていう顔をしていた。
匂いも嗅がない。
仕方がないので「ううちゃん」と鰻を呼ぶと走ってきた。
「たべてみ」と言って差し出したが、鰻も珍妙な顔をするばかりでちっとも食べない。
悪食の鰻が食べないと言うことは不味いのだな、と思い、湯や出汁で戻してみたけど獅子は見向きもしなかった。
鰻に「あかんわ」と言って出汁味の方をあげてみたが、「これは食べ物ではない」と言って逃げてしまった。

組み立てたウォーターファウンテンは、音が嫌だったのか2匹共に嫌われた。
シリンジではまた失敗すると思い、濃い味の餌に薬を混ぜたがこれも食べなかった。
明日薬を貰いに行こうと決めて、明日の分の薬をシリンジで投薬した。
半分は飲んだが半分は吐き出した。

夜に仕事が終わり、スーパーで鶏のレバーを買った。
新鮮な牛のレバーが欲しかったが、深夜なので売り切れだった。


3/3

まだ暗いうちに目が覚めたので、昨日血抜きしたレバーを使って手作りの餌を作ってみた。
「猫 貧血 レシピ」で検索するとわんさか出てくる。
レバーの他に、ブロッコリーや小松菜が良いと書いてある。
葛でトロミをつける。
レシピには無かったが味付けもする。
もう食べてくれたら多少身体に悪くても構わない。
途中までは上手くいっていたが、更に食べやすいように、とミキサーにかけたらとんでも無い物が出来上がった。
しゃばしゃばとボソボソのMIXだった。
改めて企業力の凄さを思い知った。

鰻はしゃばボソ飯を複雑な表情で食べてくれたので、獅子にもスプーンで出してみた。
明らかに「うっ」という顔をしていた。
「出来心なんですよ」と謝り、企業力の集大成と言っても過言ではない、マグロのジェリー仕立てという商品を開けた。

朝の出勤がゆっくりだったので、獅子を連れて病院に行った。
奥さん先生に栄養点滴と注射を打って貰い、薬の飲ませ方を見せて欲しいと言った。
シリンジはこぼすし、餌に混ぜたら絶対に食べないと言ったら、当たり前だと言われた。
不味いものをこの子のお皿に入れないで、食べるのが嫌になってしまうから、美味しい物だけ入れてあげて、と言われた。

美味しいもの。
獅子はもう皿から食べない。
スプーンで嫌々するのを誤魔化しながら食べさせている。
この3週間で何十匹猫を飼ってるんだというぐらい、店頭、通販、療養食を試したが、99%はゴミ箱行きだ。
美味しいと感じるもの。
どこにあるんだそんなもん。
腹の中に嫌なものを感じた。
自分は嫌な奴だと思った。

錠剤は錠剤のまま飲ませるのが良いという。
獅子はタオルに包まれて、後ろ側を保定される。
後ろから頭を持たれ、顔を上げられた獅子は今まで見たことない程激怒していた。
シャーシャーと威嚇するので、口が空いた隙に舌根に錠剤を落とし、口を閉じられた。
さすが、という手際の良さだった。
喉を撫でられ、「ゴクンした?」と聞かれていた。
獅子は目を動かして、「飲みましたよ」という顔をしている。
喉が動いたのを見て、先生が手を離すと錠剤を吐き出した。
「浅かった」と言い、同じ手順で2度目に成功した。
猫の味蕾は喉に向かって生えているので、舌根に近ければ近い程吐き出せないという。

 fcvもシリンジで与える。
ここでも獅子は黒い泡を吹いていた。
先生が丁寧に口が開くポイントを探してくれて、「この子は右の奥に入れると比較的吐き出しにくい」と教えてくれた。


3/4

奥さん先生が教えてくれたように、右奥にシリンジを当てて投薬すると7割は飲める。
獅子は気が強いので、何回押さえられても諦めずに逃げ出そうとする。
もっと強い力で押さえつけて口を開かせる。
小さくて弱いものを虐めているような、虐待しているような、嫌な気分になる。

昔、同じような気持ちになった事を思い出した。
施設務めをしていた頃に、言葉も食べ方も忘れてしまった人が居た。
何も喋らないし、自分の名前も忘れていたけど、子の名前だけ覚えていた。
胃ろう造設が当たり前の時代だったけど、家族が経口摂取を望んだので、職員はなんとかその人にご飯を食べて貰っていた。
嚥下機能は落ちていて、むせ込みは多いし、食べた物を吐き出すので、トレーの上はいつもティッシュでいっぱいだった。
確実に肺炎になっていたと思う。

その人は口が開くポイントは左に二つあった。
小さいゴム製のスプーンの枝を口の端から入れてそこを押すと口が開く。
口を開けさせる事が出来たら、喉の奥にムース状の食べ物を入れる。
口を閉じて貰ってから喉を撫でるとゴクンと上手に飲み込める。
その人の食事介助が上手だと、周りの人に褒められた。
言葉だけは丁寧にしていたけど、楽しくて美味しい食事ではなかった。
でも家族がそう望むのだから、他人がどうこう言う事ではない。
一概に、胃ろうが虐待だ、経管栄養に繋がれて生きるのは可哀想だ、自分はそうなったら死なせて欲しいとかいう人がいるが、私はそうは思わない。
そこの機能だけが失われてる人だって沢山いる。
こちらを向いて優しく可愛く笑う事が出来る親や子供を、食べれないからと言う理由で可哀想だの、生きていても楽しくないだのと他人が評価するのは薄っぺらい正義感だと思う。

ある日の朝の食事中、その人が両手で自分の口を塞いだ。
「どうしましたか」と言うとご馳走様、のポーズをして、もう一度両手で自分の口を塞いだ。
上司に、あの人はもう食べたくないと言っている、と伝えた。

昼に行っても、食事を見るなり両手で口を塞いで、またご馳走様をした。
家族にその事を伝えて、無理な食事の手伝いはやめようという事になった。
家族は泣いていた。

甘いジュースが好きだったので、それは最後まで飲んでいたと記憶している。

2週間程でその人は亡くなった。
穏やかな顔をしていた。
言葉が話せなくても、意思を伝える事は出来る。

人間と動物の違う所は、人に飼われてる動物の意思は180度曲げられてしまう。
飼い主の手によって、都合よく曲げられてしまう。



3/5

無記入


3/6

2匹を連れて動物病院に行く。
キャリーに入れる時、獅子の抵抗する力が弱くなっている。
2匹ともインターフェロンを打ち、血液検査。

鰻の数値はほぼ正常に戻っていた。
薬が効いているんだろう。

獅子はまた更に悪化していた。
ほぼ大体の数値が健康な猫の3分の1ほどしかなかった。
毎度毎度この検査結果の用紙を貰うたびに絶望する。
もうすぐフラフラになって立てなくなる数値だという。
体重は3.9kgに減った。
これだけ毎日嫌な事をしているのに、ちっとも良くしてあげれない。
ご主人先生の話を聞きながら、涙が出て止まらない。

こんな獅子の嫌がる事を毎日毎日続けていたって、もうきっと死んでしまうんだし、残りの日は毎日幸せにしてあげないといけないのに嫌な事ばかりしていて、ちっとも上手くいかない。
でも、治療を辞めたらあっと言う間に死んでしまうと思った。

治療は継続を希望し、今日を入れて5日間、インターフェロンを連続投与する。
ウイルスを叩きまくり、何とかして骨髄に働いて貰わないといけない。
抗がん剤としても使われるような強い薬を毎日打って、10日に血液検査をする。
飲み薬も3種類に増えた。
獅子には地獄の毎日だと思った。
もう家で薬を飲ますのが辛くて仕方がないと先生に話すと、今後は毎日病院で飲ませてくれるという。
ご飯も無理に食べさせなくてもいい、医師の手で強制給餌するという。

「何も分からないのに獅子はこれから毎日嫌な事をされる。
強い薬で反動も大きい。
嫌な事は全部病院で済まそう。
家では嫌な事はしなくていい。
あなたとこの子の関係の方が大事だよ」

「夕方の薬は」「仕事があるので毎日同じ時間に来れません」と言うと、休診日でも時間外でも言ってくれれば病院を開けるよ、とご主人先生は言った。

お礼を言って病院を出た。
帰り道、獅子が天井を開けろと言うのでキャリーの上のカバーを外した。
獅子は閉じ込められるのが嫌いだった。
いつもこうして天井を外して空気を吸いたがる。
獅子の緑色の目に青い空が映っていた。
透明で綺麗だと思った。
家の近くは何度も通っているので、風景を覚えているようで、「早く帰ろう」「はやくはやく」と天井のメッシュを頭で押して鳴く。

駐輪場に近所の人が居て、「あら、猫」と言った。
「病院?病気?」と聞かれてはい、と言う。
「かわいそうに、治るんやろ?」と聞かれて、言葉が詰まった。
「さあ、わからへん」と答えて階段を上がった。
誰にも聞こえないような小さい声で、死ぬなと獅子に言った。


午後にある店に行って真っ白な素焼きの猫の形をした入れ物を買った。 

1年ほど前に店頭で見かけ、白いので獅子と鰻の柄に塗ったら面白いだろうな、と思って店主にこれが2つ欲しい、家の猫の模様に塗りたいと言うと、「それは骨壷だから縁起が良くない」と言われて買わなかった。

奥に居た店主にこれが欲しい、と言うと「あれっ」「死んじゃったん?」と聞かれた。
「死んでない」「もうすぐ死ぬと思う」と答えた。
「生きてるのに、こんなもん買うたらあかん。絶対にあかん。可哀想やろ、頑張ってるのに」と言われたので、「可愛い柄やから生きてるうちに見ながら塗りたい」と返した。

店主は商品をガラスケースから出して、磨きながら獅子の話を聞いてくれた。
まだ9歳だと言うと、若いやんか。と言った。
今日の数値があまりにもショックだった、可哀想やと言うと、数字がその子の幸せを表すの?と私に聞いた。
うまく答えられなかった。

家に帰って陶器の猫をだすやいなや、獅子が机に飛び乗ってきた。
猫の頭が落ちて、耳が割れた。



3/7

朝から獅子だけ病院へ。
薬も持参する。
抵抗する力が弱くなる。
インターフェロン、抗生物質を打ち、投薬。
バスタオルに包まれて、薬をあまりにも吐き出すので前にはエプロンを付けられている。
てるてる坊主みないな格好で、可哀想と思う反面、可愛いと思ってしまう。
嫌々と首を振りながら半分程薬を飲んで、強制給餌も半分はお腹に入った。
怒っていると思っていたが、怖がっているのだと分かった。
隙をみてバスタオルから飛び出して私の胸に駆け上がって肩に乗った。
偉い偉いと皆に褒められている。
家に帰り、すぐにTVの裏に隠れてしまう。
静かに抗議している。

祖母から強い誘いがあり、外出。
祖母も抗議している。
毎週料理を作り、お酒を用意しているのにちっとも来ない。
死にそうな猫にばかり構って、おばあちゃんが先に死んじゃうから、と言って拗ねていた。
作った料理を折にしたので取りに来いと言う。
90歳でこんな拗ね方をするなんて、素直な人間なんやな、と思う。

亡くなった父方の祖母とは違い、こちらは動物嫌いを公言している。
何を考えているか分からない者は怖いと言う。
幼い頃に拾った子犬を足蹴にされたのは、母の古いトラウマだ。 

「猫、そんなにしんどくて、死にたいと思っている筈よ。死んでお空の猫族と仲良くしたいと思っている筈よ」と言われる。
お空の猫族て何や、適当に言うたやろ、と言って仏壇に線香をあげた。

食べれなくなっても口を動かす獅子が、死にたいと思っているようには考えられないと返した。
祖母は料理を入れたタッパーを渡して、もう動物の話なんか面倒くさい様子だった。

「あんた、泣いてるやん。そんなに弱い事ではアカンわ」
「たかが猫が死ぬくらいで」と言っている。

確かに自分は弱っちい、と思いながら、「死にたいと思う生き物は人間だけやわ」と口答えして祖母の家を出た。

帰りに量販店で猫の餌を買う。
獅子に出してみるけど、新しい種類のものは口にせず、安い缶詰の出汁だけ飲んだ。

祖母の料理は美味しかった。
最近は何を食べても美味しく感じなかったのに。
主婦70年のキャリアは強く、伊達じゃない。



3/8

朝、やっぱりご飯を食べないので悲しくなってグスグスやっていると、獅子が側に来て鳴いた。
何か訴えるように鳴いているけど、何を言っているのか分からない。
飼い主がグスグスしてるので不安なんだと思う。
獅子はよく鳴く猫なので、話しかけると必ず返事をする。
「ご飯?」でも「遊ぶ?」でも「しし」でも「うなぎ」でも嬉しそうに返事をする。
自分に都合よく「食べる?」と聞いてみるとやっぱり返事をしたのでもう一度準備したが逃げてしまった。
グスグスを辞めて撫でると腹を出したので、「ああ、撫でろと言ってたのか」と分かった。


仕事の合間に獅子だけ病院へ。
力が無く、殆ど抵抗しない。
獅子をキャリーに入れると腕が傷だらけになって大変だったなあ、と昔の事を思い出す。
奥さん先生に家では殆ど食べれないと相談。
インターフェロン、栄養点滴などを打つ。
痛い事には獅子はじっと耐えている。
タオルでぐるぐる巻きにされて投薬と強制給餌。
エプロンをかけられると、獅子は絶望したような顔になる。
まだそんな力があるのかと思う程、「やめて、やめて」と首を振って抵抗する。
薬を吐き出すので口から下が黒く染まる。

奥さん先生は「この子が少しでも美味しいと感じるものを」と何種類も餌を試してくれるが、その殆どを吐き出してしまう。

右の奥に入れられると口を開いてしまうので、獅子は右側を食いしばるようになっていた。

それでも約半分はお腹の中に入る。
黒く汚れて震えながら唸っている獅子を可哀想に思うけど、家で食べさせるのは到底無理な量で、私が挫けて出来ない嫌な仕事を病院が引き受けてくれている。

帰りの車の中、震えながら窓の外を見ている獅子に目をやり、「ごめん」と言って泣く。

獅子を虐めているのは私だ。
そして明日も同じことをする。



3/9

昨日は家では殆ど食べなかった。
朝1番で病院に行く。
待合室で獅子のキャリーを膝に乗せると、中で震えているのが分かる。
「昨日も今朝もあまり食べれていない」と奥さん先生に伝える。
点滴や注射、強制給餌に投薬をしてもらう。
ドロドロになりながら怖がって暴れているのを「頑張って食べて」と言いながら見守るが、正直目を背けたくなる。

これは私が希望してして貰っている事なのに。
先生や看護師さんはきちんと仕事をして、私の気持ちのケアまでしてくれている。

獅子はシリンジ2本の5割程をなんとかお腹に収めて「助けて」と飛びついてきた。
「見たくない」は言う事も思う事も悪だ。
「偉かった」と背中を撫でて獅子をキャリーに入れた。

明日は血液検査の日だ。
明日良くなってるとは思えなかった。
明日駄目だったら、もう治療は諦めよう。
獅子はこんなに頑張ったのだから、毎日嫌な事ばかりしたのだから、家で息を引き取るその日まで、大事に大事に一緒に過ごそう。

帰宅してから沢山鰻に舐めて貰って、口の周りの薬やら餌やらがすっかり綺麗になった獅子は、フローリングに横になった。



3/10

仕事の合間に病院に行く。
今日はご主人先生だった。
血液検査の結果は思っていた通りだった。
全ての数値が前回をはるかに下回っていて、分かっていたのにショックで泣いてしまった。

薬効が無いと見るべきか、治療しているから踏みとどまってこの数値と見るべきか。
どちらにしても生きていける数値ではないとご主人先生は言った。
血を作る為に骨髄を動かす治療をしているけど、どんなに薬を打っても骨髄が反応していないという。
今までの貯金の血液で生きている状態で、ご飯が食べれなくなりゆっくり死ぬのではなく、使い切ったら死んでしまうのだという。
獅子は食べれなくてガリガリになって死んでしまう、と思っていたが、それも叶わない。

ここまで数値が落ちても、まだ目に力がある、偉いよ、と先生は獅子を褒めてくれた。
ご主人先生も奥さん先生も、度々「目に力がある」という言葉を使うが、私にはよく分からない。

「これ以上の治療は獅子が可哀想だと思う。この後は家で安心して過ごさせてあげた方が」とご主人先生が話を始めた時、
「踏みとどまっていると見るべきだ、獅子はこんなに頑張っているのに」と検査室から奥さん先生の声がした。 

奥さん先生の言葉は嬉しかった。
毎回、暴れる獅子に色々な工夫をして経口管理をしてくれたのはいつも奥さん先生だった。
でも、多分ご主人先生の見立てが正しいのだろう。
診察台の獅子は震えている。
もしも言葉が話せたら「もう辞めたい」と言うだろう。
獅子の代わりに私が言わないといけない。
「治療は辞めます」と、「諦めて、死ぬ事を受け入れて、家で最期を看取ります」と言わないといけない。
私しか言える者がいない。
喉元までその言葉が出かかっているのに、違う言葉が口に出た。

「私は獅子と鰻しか知らない。先生は沢山の猫を診てますよね」
「獅子と同じ病気で、同じ位まで数値が落ちて、飼い主が諦めずに治療を続けて一度でも調子が良くなった猫を知っていますか」

ご主人先生は少し考えた後、居るには居たが、%で表せる確率ではないと言った。
そんな事は奇跡に近く、言いたくなさそうな表情をしていた。

その猫はどれくらい生きましたか、と聞いた。
一度だけ調子が良くなり、一年未満で亡くなったとご主人先生は答えた。

聞かなければ良かった。
一度でも元気になり、一年足らずでも生きる獅子を想像してしまった。
大好きな出窓に乗り、外を見ている姿を、毎朝見ていた何でもない光景を思い出してしまった。
会った事もないその猫の飼い主を羨ましいと思った。

今日で全部お終いにしないといけないのに、昨日の夜に獅子と約束したのに、「諦められない」と先生に言った。

「獅子にはとんでもない負担だし、これ以上功を奏さないお金を使わせるのも」と先生が言う事を「お金はどうでもいい」と遮り、「最後にします。その猫と同じ治療をして欲しい」と伝えた。

ご主人先生は暫く黙り、「頑張ってくれよ」と言って診察台の獅子の頭を撫でて、「僕も頑張るから」と治療の延長を受け入れてくれた。
更に5日間、連続でインターフェロンや抗生剤を打つ。
投薬や強制給餌も延長をお願いした。

帰り道、助手席で鳴く獅子を見れなかった。



3/11

スプーンで朝ごはんを与えたが、出汁しか舐めなかった。
布団で寝ている獅子をキャリーに入れて、朝一で病院に行く。
今日は休診日なのに、病院を開けてくれている。
奥さん先生にお礼を伝え、「殆ど食べない、水も飲む所を見ていない」と訴え、脱水防止の為に点滴も追加してもらう。

栄養が全部点滴で採れたらいいのに、と思う。
強制給餌や経口投薬はされる方もする方も辛い。
大人しく強制給餌された餌を飲む子の動画をいくつも観たが、獅子と何が違うのだろう。
私のやり方が下手くそだから暴れるのかと思っていたが、病院で上手にしてもらっても嫌がり、殆どを吐き出してしまう。

獅子にとっては、痛い注射や点滴よりも、食べ物や薬を口に流し込まれる方がよっぽど辛いのだと分かる。

今日も強制給餌をしてくれている奥さん先生は、「獅子ちゃん、偉いな」「こっちの味はどう?」と色々試してくれているが、獅子は歯を食いしばっていて、口からダラダラと食べ物や薬が溢れていた。

ただでさえ体力が落ちている上に、抵抗に力を使うので、終わった後はいつも背中を波打たせて息をしている。
堪らなくなり、「経管栄養にした方がストレスが少ないんでしょうか」と聞くと、「人と動物は違う。猫への経鼻経管手術は、私は虐待だと思っている」と奥さん先生がはっきりと言った。




3/12

今朝はささみのパウチをスプーンに乗せると舐めてくれたが、固形の部分は飲み込めず、ほとんどが下に落ちてしまった。
ペースト状やパテは嫌なようで匂いも嗅がない。
朝イチで病院に行く。
体重は3.8kgだった。
インターフェロン、抗生物質の注射と投薬。
強制給餌をほとんど吐き出す。
嫌がって毛を逆立てて首を振っている。
「えらい」「あとちょっと」「嫌やな」「ごめん、ごめん」「頑張って、あとこれだけ」「獅子の為なんやで」
奥さん先生、看護師さん、私が口々にそんな事を言うが、獅子からすればただでさえしんどいのに嫌な事をされているだけなので、更に口を食いしばって食べ物を通さない。

奥で見ていたご主人先生が「獅子、食べてないよ」と辛そうな顔で言った。

自宅に帰り、獅子はすぐに隠れてしまった。
ごめんね、と言って仕事に行き、移動中の車内で泣いた。

夕方に時間に空きがあり、自宅に帰るとフローリングに吐いた跡があった。
朝に強制給餌した内容と経口投薬、ほぼ全量だった。
乾いていたので私が仕事に行った後すぐ吐いたのだと思う。
あんなに嫌な思いをさせてやっとお腹に入れたのに、駄目だった。
獅子の為よ、と言っていた自分が情けなかった。
今日で7日間、連続でインターフェロンを入れている。
嘔吐は副作用だ。
獅子は鰻にくっついて眠っていた。
夜の分の仕事に行き、帰宅後いくつも餌を開けるが何も食べず。
水も飲んでいる様子がない。



3/13

朝1番で2匹を連れて病院に行き、鰻はあっと言う間にインターフェロンを終えて自分からキャリーに戻っていった。
獅子の番になり、「何も食べないし、飲まない。昨日の強制給餌も薬も全部吐いてしまった」とご主人先生に伝える。

獅子をキャリーから出すが、もう抵抗する力は出せないようだった。
インターフェロン、脱水防止の為の栄養入りの皮下点滴で獅子の身体はたぷんたぷんになった。
この皮下点滴はストルバイト持ちの鰻もよく打って貰っていて、身体に吸収されるのが早く、半日程で水風船の様な身体は元に戻る。
吐き気止めの注射の相談があり、「打って下さい」とお願いした。

強制給餌は殆どを吐き出した。
見ているだけで泣けてきた。
それでも獅子の小さい身体に薬や餌が入る程、今日の命を保証されたような気になっていた。

帰り道、2匹を連れて実家に寄った。
両方のキャリーを開けると、獅子は実家を覚えていたようで、自分から出てきて床に寝転んだ。
父が「しーし」と呼ぶと返事をした。
その後はTVの裏に隠れてしまった。
鰻はキャリーの中で丸くなったまま出てこなかった。

自宅に戻り、しばらくすると獅子の涎が止まらなくなった。
ポタポタと壊れた蛇口のように垂れ続けて水溜りが出来る。
口を拭くと嫌がり、移動してはまた水溜りを作った。
じっと口を閉じて我慢している顔だった。
鰻がずっと側に居る。

昼間に涎が止まる。
暫く様子を見て夕方にご飯をスプーンで与えようとしたら、また涎が止まらなくなった。
よろよろと移動して腹を波打たせている。
何度も何度も嗚咽するが、透明な涎が垂れるばかりで何も出ない。

私が吐き気止めを打ってと言ったから。
吐いたら楽になるのに吐けない。
身体はまだパンパンで、皮下点滴をちっとも吸収出来ていない。

鰻だったらもうとっくに吸収しておしっこにして出し切っている時間だ。

嗚咽の途中、水みたいな便を失禁するが気づいていない。

汚れたお尻と後ろ脚を綺麗にして、獅子の顔を見た。
獅子も私を見ていた。

もう駄目だと思った。
獅子はこんなことばかりされて、長く生きたいなんて思っていない。
鰻も思っていない。

獅子は何も恐れてない。
死という概念を持ち、それから逃げ回っているのは私だけだ。



3/14

嘔気は収まったけど、今日も何も食べない。
「最後にするから」と獅子に言い、キャリーに入れると小さい声で鳴いた。
本当なら、明日までインターフェロンを続けて、血液検査をする予定だった。
ご主人先生は獅子の診察や投薬の準備をしていたが、顔を見ると座り直して話を聞いてくれた。
「本当ならあと1日、頑張らないといけないけど、もう出来ません。可哀想でもう出来ません」
ここでどれだけ泣くんやっていうくらい毎日泣いている。
先生の言葉を聞かず、私が望んで治療を延長してもらったのに全く芯がなくてぐらぐらしている。
ご主人先生は私の中にまだ迷いがある事を見抜いたのか、血液検査をしてくれた。

獅子の骨髄は全く動いていなかった。
前回の半分以下、数値が低すぎて測定不能の項目もあり、ぐらぐらの背中を押すのには充分だった。

先生は獅子に、「これでもう、嫌なことは全部済んだよ」「後はずっと好きな場所に居れる」と言った後、「嫌な事ばかりして、1度も良くしてあげられなかった。ごめん」と謝っていた。
そんな事を言う医師は稀だ。
驚き、私の希望通りに治療してもらったのに、申し訳ない気持ちになった。

何が知りたいのか、「動物は絶飲絶食でどれくらい生きますか」と聞いた。
「2週間位。猫は特に強いよ」「でも、獅子の場合は食べれなくてというよりも、骨髄が動いていない事が問題。必ずいついつまで生きれると、僕はあなたに言ってあげれない」

「僕と奥さん先生は考え方が違ってね」と先生が続けた。
「治療で何も分からない動物を頑張らせたのだから、人間も最後まで諦めてはいけないと思ってるのが奥さん先生。我が家の猫も病気なんやけど、絶対に諦めない。」

「僕は何も分からない動物に、最後まで痛い事はしなくていいと思ってる」「人間も、最後まで一緒に消耗しなくていい」
「昔はよく言い合いをしたけど、今はしない」と言った。

地元に越してきてからずっとこの病院に通っていたので、「最後まで点滴をして下さい」「最後まで注射を」と詰め寄る飼い主を沢山見た。
今ではその人達の気持ちが痛いほど分かる。

ご主人先生は出来る限りの対応をしてくれるが、最終的には「最後は病院ではなく、家であなたと過ごす方が幸せだ」と説いていたし、奥さん先生は最後まで治療したのだと思う。

どちらの信念にも助けられ、ここに来たら私が安心していた。
1人では不安で堪らなかった。

「ごく稀に、骨髄が動き出す子も居る。もう連れて来れなくていい。何か不安な事が起きたら電話してきて」とご主人先生は言った。

お礼を言って病院を出た。
長いこと話をして、血液検査もしたのに、値段は驚くほど良心的だった。

獅子が、「天井を開けて」と頭で押すのでキャリーの天井を開けた。
注射も強制給餌も無く病院が終わり、安心したのか可愛い顔と声で鳴いた。
明日から病院に行かない。
獅子が次に外に出るのは死んだ時だ。

酒が飲みたいと思った。
めちゃくちゃな量を飲んで、気持ち悪くなって、吐いて寝たい。
病気の獅子を抱いてこんな事を考えている自分は呪われたらいい。

獅子を自宅に帰した後、用事があり実家へ。
酒が飲みたいと言うと母が、
「朝から飲むのは気分が良いわな」と言った。
うちの親族は呑ん兵衛しか居ない。

ただ、掟はあるようで、
「朝酒は健康な時しかしてはいけない」
「家に病気の者がいる時もしてはいけない」
と釘をさされた。
どのみち夕方に車の点検があるので飲めなかった。
昼間と夕方に獅子の食べれそうなものを開けたが、何も食べたくないと横を向いてしまう。
夜になり、大概な量のウイスキーと焼酎を飲んだが、不味いばかりでちっとも酔わず、最低の気分だった。


3/15

夜に大きな地震があり、朝携帯を見ると友達が何人か「大丈夫やった?」とメッセージやLINEをくれていた。
震源地は私が住んでいる所から大きく離れていたので、「大丈夫でした、ありがとう」と返事を送ったが、心配してくれた1人、Tちゃんにだけは返事を返せなかった。

9年前の春の終わり、Tちゃんと遊んだ帰り、Aちゃんから電話があった。
「仔猫、拾ったんやけど、飼う?」と。
子供の夜泣きをあやそうと、外で散歩している時に拾ったという。

丁度鰻が一歳になった頃で、「そろそろ彼女が欲しいやろうな」と思っていた所だった。
雌だと聞いたので、Tちゃんにお願いして、車でAちゃん宅に連れて行って貰った。

Aちゃん宅の靴箱の下に猫は居た。
思ったよりもずっと小さくて驚いた。
人差し指に乗る位の前脚に生えた小さな爪は糸のように細くて鋭く、すぐにその爪の感触に夢中になった。

家に送ってもらう車中、あまりにも猫が甘えるので、「この子、飼われてたんかな」とTちゃんが言った。
Aちゃんは私の他にもう1人、Mちゃんという共通の友達にも声をかけていたそうで、Mちゃんも同じ猫を「欲しい」と希望していたと聞いた。
Tちゃんが車を走らせてくれたので仔猫は私の家に来た。

獅子頭と言う名前は決まっていた。
よくライオンの獅子と間違えられるが、オランダシシガシラという綺麗な金魚から名前をとった。
鰻の彼女やから、可愛い魚の名前を付けた。

Tちゃんは獅子を可愛がってくれて、「良いお家に来たね」と言ってくれた。
私が旅行に行った時は「ペットホテルは可哀想よ」と鰻と獅子を預かってくれた。
広いお家でお母さんと一緒に、大事に2匹の面倒を見てくれて、「元気にしてるよ、大丈夫よ」と写真を送ってくれた。

AちゃんにもTちゃんにも、合わせる顔が無かった。
未練な話、あの時Mちゃんのお家に貰われていれば、獅子は今でも元気に走り回っていたのかもしれない。

そんな事を考えているうちに午後になり、仕事の空き時間、自宅に帰った。
獅子にご飯を出したけど、まだ気分が悪いようでどれも食べなかった。

Tちゃんに心配のお礼と、獅子を病気にしてしまった事、もう出来る治療がない事をLINEした。
すぐに通話の通知が来て、久しぶりにTちゃんと話した。
暫く会えずにいたうちに、Tちゃんにも大変な事が起きていたと知った。
「Tちゃんのが大変やんか」と言うと、「同じよ」と言う。
Tちゃんは泣きながら私の話を聞いてくれた。
沢山話を聞いてくれた後、
「そんなに毎日泣いていたら、獅子、「私のせいかな」って思ってしまうよ」
「今日1日は同じ1日。泣いた日も笑って過ごした日も同じ1日よ」と泣き声でTちゃんは言った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?