表情がうつった

 昔から、身近な人を想像の中で殺す癖があった。時には父を、時には母を、きょうだいを、友人を、心の中で殺しては、泣いた。

 「殺す」と言っても、想像の中の自分が自らの手で殺めるということは、今まで一度もなかった。事故であったり、自殺であったり、病死であったり、他殺であったり、その時々に自らが触れた死にまつわる情報の中から、特定の殺し方が選ばれていたように思う。時には大切な人が目の前で殺されて泣くこともあれば、間接的に死を知らされて、葬儀の時にやっと涙が込み上げてくることもあった。現実で祖母が亡くなった時には、棺桶に閉じ込められた祖母の化粧顔と対面したとき、はじめて涙が込みあげてきた。それからは、想像の中で誰かを殺すときも、棺桶に入ったその人の顔を見て泣くことが多くなった。

 「今日は泣きたいな」と思って、意識的に想像を起こすわけではない。それは、急にやってくる。人前にいるときは絶対にやってこないので無条件というわけではないのだろうけど、それ以外の条件は特に見当たらない。それは突然に、やってくる。

 別に、大切な人との愛を確認したいとか、そういう類のものでもない。想像の中で誰かを殺した後、現実でその人と目を合わせて安心を覚えることもあるけれど、そこに目的があるわけではない。それはもっと、自分の中で閉じていて、完結しているもの。ただ放出するための自慰みたいに、とても即物的で、自閉的なもの。

 仕事の打ち合わせで渋谷に降りて、取引先のオフィスの休憩室で一人で休んでいたら、急にそれがやってきた。はじめて、同居人のちえちゃんが死んだ。同棲をし始めて1ヶ月しか経過していないけれど、大切な人になってきているのだと思う。死の瞬間は、描かれなかった。「死んだ」ということだけがあり、それが始まりだった。子供のころなんて、取っかえ引っかえバリエーションに富んだ殺し方をいくつも想像できていたのに、最近はできなくなった。死について考える機会が多い子供だと自分でも思っていたけれど、そこまで簡単に想像できたのは、実際の死に触れる機会が少なかったからなのだと、今になって思う。

 いつもの酒の席で、友人たちと会う。同居人が死んでしまったことを一緒に悲しんでもらいながら、お酒を飲む。それから、へこんでいるところを笑いながらいじられる。友人だから笑いながらいじってくれているのだと理解しながらも、そんな簡単に笑い話にできることではないと、目の中に溜まった涙がこぼれ落ちないように、からかってきた対角線に座る男のことを睨みつける。その男と重なるようにして、ちえちゃんの姿が現れた。ちえちゃんが、僕と同じ表情でこちらを睨んでいる。お酒を飲みながら、ちえちゃんの好きなロックバンドのライブ映像を一緒に見たことがあった。曲と曲の合間に、マイクを通して叫んだボーカルのひとの言葉に、酔っぱらった僕が雑に否定的なことを言って、ちえちゃんを怒らせてしまった。用を足しにトイレに行っても、ちえちゃんが追いかけてきて「なんであんなこと言ったの」と、便座に座る僕のことを睨んできた。そのときと同じ表情で、こちらのことを睨んでいる。ちえちゃんが、僕と同じ表情をしているのではないことに気づく。いつのまにか僕が、ちえちゃんの睨み顔を真似するようになっている。ちえちゃんの、表情がうつった。現実の方の自分から、涙がでてきた。


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