はじめて胃腸炎を認識

 早朝、6時頃にお腹が痛くなって目が覚めた。少しでも油断したら簡単に漏れ出てしまうのではないか、というお尻の具合だった。こんな状態で目が覚めるなんて、急に瀕死状態から始まるロールプレイングゲームみたいであまりに理不尽だ。そんなことを思いながら、研ぎ澄ました精神をお尻にだけ注力し、トイレへと突っ走った。お尻だけ慎重で、それ以外の身体の部位は全力だった。
 トイレでの戦いが無事終わった。後に『第一次世界大便』と名付けられるほど、熾烈な戦いだった。リビングに入ると、ちえちゃんが居た。朝の6時なのに、まだ寝ていないようだった。

「まだ寝てないんだ」

そう声をかけて、ダイニングテーブルの上に置いてあったバナナを一口食べた。お腹に激痛が走った。

「痛い痛い痛い痛い」

椅子に座りながら、うずくまった。

「え?そんなに痛いの?」

ちえちゃんが心配そうな声をかけながら、毛布で体を包んでくれ、温かいお茶を出してくれた。温かいお茶は冷たいバナナと違って、胃に優しかった。胃が落ち着いたところで自室に戻り、布団が敷いてあるロフトに登って、毛布に包まってファンヒーターの熱を浴びながら、また寝た。体全体を温かくしているときだけ、お腹の痛みを引かせることができた。3時間後、仕事に行く時間だったけれどお腹が痛くて動けなかったので、体調不良で休むという連絡をして、また寝た。

 14時ころ、部屋のドアノックが鳴った。「はーい」とロフトから返事をすると、「えっ、いるの!?」と言いながら、ちえちゃんが部屋に入ってきた。

「体調悪かったから、会社休んだよ」
「なに?熱?」
「お腹痛い」
「まだお腹痛いの?どういう痛み?風邪のときとは違うの?」
「違う」
「それ胃腸炎かもしれないよ」

ロフトの上から下を覗くと、ちえちゃんが黒くて大きなPCチェアに脚を組んで腰掛けながら、やや俯き気味に喋っていた。

「天才がインタビュー受けてる場面か!」

あまりにも天才みたいな姿勢で喋っていたのでとりあえず突っ込みを入れると、ちえちゃんも一瞬笑って、すぐに真顔に戻った。

「胃腸炎かもしれないから病院行ったほうがいいよ」
「えー」
「病院探すから行きなよ」
「でも良くなりつつあるよ」
「良くなってるかもしれないけど、病院行ったほうが早く治るし」
「うーん」
「早く美味しいもの食べれるよ」
「うーん」
「行こう、今」
「うーん」

少しでも体を動かすとお腹が痛くなるし、自転車で病院に行くの寒いなぁ、家にいたいなぁ、そもそも病院あんま好きじゃないしなぁ、と思いながら、ひたすら生返事をくり返した。ちえちゃんは自分の部屋に戻った。すぐに、ちえちゃんからLINEが届いた。家の近くにある内科のURLだった。

「ここ行こ」
「治んなかったら、行っとくよ」

LINEを返して、毛布に包まってファンヒーターの熱を浴びながら、また寝た。

 30分くらいしたところで、お腹が痛くなって起きた。少しでも油断したら簡単に漏れ出てしまうのではないか、というお尻の具合だった。また瀕死状態からロールプレイングゲームがはじまりやがった!そんなことを思いながら、研ぎ澄ました精神をお尻にだけ注力し、トイレへと突っ走った。お尻だけ慎重で、それ以外の身体の部位は全力だった。
 今回も、ギリギリの闘いだった。この戦いのことを『第二次世界大便』と名付け、朝の戦いのことを『第一次世界大便』と名付けることにした。ちえちゃんは仕事の時間が迫っているので、お風呂に入っていた。

「おかゆ作ったよー!」

曇ガラスの向こう側から、肌色のシルエットのちえちゃんの声が響いてきた。「ありがとう」と言ってリビングに入ると、出来立てのおかゆの匂いが漂ってきた。冷蔵庫にはイチゴやヨーグルト、ヤクルトなどが増えていた。ちえちゃんがスーパーに食料を買いに行き、おかゆを作ってくれていたのだ。
 温かいおかゆをお椀によそって、温かいお茶と一緒に食べた。ねぎや、しいたけや、卵の入った白色のおかゆは、一切お腹が痛くならないくらいに刺激のない優しい食べ物で、おいしかった。2回の世界大便も終結し、おかゆを食べて元気が出たので、病院に行く気持ちが湧いてきた。それに、これだけのことをしてもらって、ちえちゃんの言うことを聞かない態度をとることは、後々関係の悪化に繋がるということも、同棲を始めて3ヶ月目の中で学んできたことだ。お風呂を終え、自室で仕事に向かうための服を選んでいるちえちゃんに「病院行ってくるわ」と声をかけ、病院に向かった。

 結果は、ウイルス性の胃腸炎だった。治るまで待つしかないけれど、熱があるので解熱剤と、下痢止めのための薬と漢方を処方してもらった。病院の先生に診断してもらってやっと、これが『胃腸炎』というやつか、としみじみ思えた。

 僕は、あまり病院に行ったことがなかった。実家に住んでいるときも、救急車で運ばれるくらいのレベルじゃなければ、あまり病院に連れてかれるということはなかった。体調を壊したとき、母が「病院行けば」と言ってくることはあれど、「別に行かなくていいよ」と返せば、それ以上は何も言ってこなかった。父は「なんか最近、指が痛いなぁ」と3ヶ月間も毎日のように言いながら、やっと病院に行っては「骨折してたわ!」と、帰ってくるような人だった。そんな環境で育ったからか、実家を出て一人暮らしをした7年間、体調を壊しても一度も病院に行くことはなかった。その間、たぶん蕁麻疹にもなったし、たぶんインフルエンザにもなったし、たぶん胃腸炎にもなった。でも、病院に行かずに部屋で我慢して時間が解決してくれるのを待っていただけだから、それが本当に『蕁麻疹』であったのか、『インフルエンザ』であったのか、『胃腸炎』であったのか、今でも謎のままだ。誰かに「インフルエンザ罹ったことある?」「胃腸炎になったことある?」などと聞かれたときには、「うーん、たぶん、それらしきものはあった」と、返すしかない状態だった。でも今回は病院に行って、『胃腸炎』だと正式に通告された。これが『胃腸炎』なのか。これが、みんなが言っていた『胃腸炎』なのか。こういう症状が『胃腸炎』の症状なのか。いろんなことが頭の中で繋がって、人生の伏線が回収されたみたいで嬉しい。これから誰かが『胃腸炎』の話をしたとき、「たぶん、」なんて前置きをする必要もなく、ストレートに自分の『胃腸炎』の話をすることができる。そんな未来を想像すると、ちょっと嬉しくて笑みがこぼれそうになる。


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