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出会って一ヶ月でのIKEA

 同居人のちえちゃんと初めて出会ってから、まだ1ヶ月くらいの頃。同棲を始めるために、立川のIKEAへ家具を買いに行くことにした。大規模な河川氾濫をもたらした台風19号が関東に上陸した、次の日だった。

 IKEAに行く前日、新宿のちえちゃんの家に泊まっていた。朝の11時頃に起きてシャワーを浴び、立川のIKEAが営業しているのか、JR中央線が動いているのかをスマホで調べた。公式情報よりもTwitterユーザーの呟きを信じがちな僕は、Twitterの検索窓に『IKEA 立川』と入力したら、「ホームページ見ればいいじゃん」と、ちえちゃんが横から言ってきたのでChromeを開き、立川のIKEAのホームページに接続した。前日の台風の影響で、午後からの営業だと発表されていた。JR東日本は、当初は昼の12時から電車の運行を再開する予定だと発表していたけれど、テレビに流れているニュースを見るに、朝の10時から既に運行を開始しているようだった。

 部屋の窓から外を覗くと、空が遠く向こうまで青々と晴れ渡っていた。台風一過というやつだ。そんな空を見てちえちゃんは「外に出てのんびりしたい」と言っていたけれど、IKEAの営業開始時刻まで少し時間に余裕があったから、Switchのマリオカートをしながら時間を潰すことにした。前日の夜、雨風の音が窓を叩く中、Switchでちえちゃんの顔に似たアイコンを作った。色白で、眉の下がった、黒目の大きな女の人。どことなく不安そうな顔をしている。そのアイコンを使って世界の人とマリオカートのオンライン対戦を始めると、ちえちゃんの顔をしたアイコンが地球の上にポツンと現れる。

「やだ〜。これ、私のお母さんじゃん」

ちえちゃんがそのアイコンを見て、嘆くように言葉を吐いた。ちえちゃんのお母さんを見たことは無かったけれど、出来上がったものがお母さんに凄く似ているらしかった。マリオカートをしばらくプレイして12時すぎに、中央線で立川へと向かった。

 立川駅の北口を出て、北口大通りをIKEAの方角に向かって歩く。生活に根付いた、ありとあらゆるチェーン店がアーチを形作るように、道の両脇を固めている。サンドラック、ビックカメラ、レオパレス、吉野家、アイフル、磯丸水産、BIG ECHO、BookOff、Loft、アコム。どこにでもあるチェーン店の色の強い看板が並んで、街の彩りをつくっていた。その色が鮮やかに目に飛び込んでくることで、いつもより空気が澄んでいることに気がついた。赤の背景に白色の看板、白の背景に赤色の看板のお店が多く、赤と白が北口大通りの基調の色になっているように見えた。

 しばらく歩いて、『曙橋』の標識のある大きな交差点に差しかかったところで、『銀だこ』の看板が視界に入ってきた。

「たこ焼き食べたいね」

その看板を見ると、隣でちえちゃんが呟いた。いいね、食べよう。そう返事をして、そのまま『銀だこ』の店舗の前にできていた行列に並んだ。銀だこのすぐ近くには『la famiglia 家族』というタイトルの、3人の人と、3匹の鳩が手を取り合った、石のモニュメントが建立していた。そのモニュメントの周りが花壇になっていて、その花壇を囲う石の上で、たこ焼きを食べながらお酒を飲んでいる人たちがいた。

「たこ焼きと一緒に、ビール飲みたくなっちゃうね」

その人たちのことを見たからだろうか、ちえちゃんが呟いた。

「いいね、飲もうよ」

僕もちょうど、お酒を飲みたい気分だった。

「でも、わたし昨日も1人でビール飲んだし、今日は飲むのやめとく」

今度は打ってかわって、遠慮の言葉を口にされた。

「台風一過だし、飲めばいいじゃん?」

僕は、ちえちゃんがお酒を飲みたいという前から、台風一過の見晴らしのよい景色はお酒を飲むのにうってつけだと思っていた。湿気の吹っ飛んだ、いつもより遥かに澄んだ空気は、気のおけない人たちとお酒を飲んで上手に酔っぱらえた時の頭の中身を連想させた。

「もう、あなたは私が何を言っても肯定してくれるんだね。これからは自分がお酒を飲みたいかどうか、自分の中でちゃんと推敲してから伝えるようにするね。じゃないと、お酒を飲みすぎちゃうから」

そんな言葉を残して、ちえちゃんは横断歩道の向こう側にあるローソンに向かって走っていた。僕は別に、ちえちゃんのことを全肯定しているわけではないと思う。けれど、そういう言葉を残すことは、ちえちゃんがお酒を気持ちよく飲むために必要な、儀式のようなものなのだろうと思った。

 お酒を買いに行ってもらっている間に、チーズ明太子のたこ焼きと、ねぎのたこ焼き、それぞれ6個入りのものを購入した。焼きたてのたこ焼きをお店の人から手渡されると、ちょうどちえちゃんが横断歩道の向こう側からこっちに向かって小走りでやってきた。風が強かったからか、まるで戦場に向かう兵士のように凛々しい顔つきで、エビスの500mlの缶ビールが2つ入った袋をぶら下げてやってきた。ちえちゃんは、それこそゲームのアイコンみたいに、眉がよく動く表情をする。垂れたり、上がったり、中央に寄ったり、離れたり。この時は、つり上がった眉が中央に寄って凛々しい表情になっていた。お酒を買ってきただけなのにそんな顔になれるなんて、かっこいい人だなと思った。

「向こうに大きな公園があるから、そこで食べようよ」

昭和天皇記念館のある国営昭和記念公園で、たこ焼きを食べながらビールを飲もうと誘った。グーグルマップを見ながら国営昭和記念公園を目指して歩くと、初めての道に迷ってしまった。近くで信号待ちをしていた年配の女性に、ちえちゃんが声を掛けた。

「すいません、ここら辺に国営昭和記念公園があると思うんですけど、わかりますか?」
「すいません、わからないです」
「すいません。ありがとうございます」

お礼を言うと、また近くにいた別の年配の女性に、ちえちゃんが声を掛けた。

「すいません、ここら辺に国営昭和記念公園があると思うんですけど、わかりますか?」
「すいません、ここの人じゃないので、わからないです」
「こちらこそすいません。ありがとうございます」

今度は、近くを通りかかった女子小学生6~7人の集団に声を掛けた。

「ここら辺に国営昭和記念公園があると思うんですけど、どこにあるかわかりますか?」

声を掛けられた女の子が、近くにいた女の子に「知ってる?」と、助けを求めた。助けを求められた女の子は「えー?」と口にしながら、なんで私たちに声をかけてくるんだよ、と言わんばかりのつまらなそうな顔をして、全く足を止める気配もなく僕たちを避けるように通り過ぎていった。最初に声を掛けられた女の子も、友達が無視を決め込んだことで自分も免罪符を得られたような顔になって、視線を逸したまま通り過ぎていった。

「わかった!ありがとうーっ!」

ちえちゃんは、新任の先生が子どもたちに掛けるようなよそよそしい明るい声を、その女の子たちの背中に浴びせた。

 交差点の向こう側に目をやると、小さな公園があることに気づいた。昭和記念公園を諦めて、その小さな公園でたこ焼きを食べることにした。信号を渡って、その公園に近づく。大通りには面しているけれど、隣に建っている多摩信用金庫の大きな建物に隠れた、日陰の多い公園だった。中に入ると、円を描くように配置された木のベンチのところで、おじさん2人が昼間からお酒を飲んでいた。一人はストロングゼロを、もう一人はレモンチューハイを飲んでいた。公園内に生えた薄茶色の木とか、くすんだ灰色の石の床に馴染んだ、地味な色のジャケットを2人のおじさんは羽織っていた。一つの円を形作る2つ隣の席では、白いYシャツに黒い長ズボンの制服姿の高校生が、手作りのお弁当を頬張っていた。白色の有線イヤフォンをし、膝に置いたスマートフォンを文字通り首を折るように眼差しながら、お弁当を食べていた。食べ物よりもスマホに集中する高校生に過去の自分を、ストロングゼロを飲んでいるおじさん達に未来の自分を重ねた。雰囲気がよいと思う公園には、自分にとっての過去と現在と未来が同居している。近くにあった横並びの木のベンチのところに腰掛けて、買ったばかりのたこ焼きを広げ、缶ビールのプルトップを開けた。

「IKEAに乾杯だね」

ビールの缶を叩き合わせた。

「もう来週には引っ越しだよ」
「ね、本当に一緒に住むんだね」
「大丈夫かなぁ」
「大丈夫でしょう」
「でもさ、一緒に住むってなってなかったら、こんなに頻繁に会おうとも思えなかったと思う。途中で別にいいや、って諦めてたんじゃないかなぁ。同棲はナイスアイデアだね。ナイス♪ ナイス♪」

声も笑顔も弾ませながら、雲一つない空を見上げて、ちえちゃんが缶ビールを飲み始めた。まだ出会ってから1ヶ月くらいしか経っていなかったし、当たり前なことだけど、初対面でいきなり同棲を始めるなんて不安だとちえちゃんは常々言っていたので、そんな笑顔を見ることができて少し安心した。こうして好きな人と昼間からお酒を飲めることに対して、不思議でもあり、嬉しくもある気持ちになっていた。

 僕の父親は、酒を飲まなければ寝れないほど、お酒と一体の生活を送っている人だった。僕が物心がついた頃には既に父親との関係が冷め切っていた母親は「お父さんはいつもお酒を飲んでいてお金がもったいないね」「酔っている時のお父さんは面倒くさいね」「お酒に使うくらいなら他のことにお金使えばいいのにね」と、常々、僕やきょうだいに愚痴を漏らしていた。確かに、深夜に酔っ払って家に帰ってきて無理やり起こしてきたり、子どもに賭け事を持ちかけてきたり、父親の酒癖は少し悪かった。そんな父親の姿と、母親の苦言を聞いて育ったからだろうか、僕もきょうだいも皆、友達とは外でお酒を飲むけれど母親の前でお酒を飲むことは今でもない。成人してから家族でご飯に出かけても、お酒を飲むのは未だに父親だけだ。僕やきょうだいにとって、母親の前でお酒を飲むという振る舞いは、家族の紐帯を破壊する象徴性を持ってしまった。そんな家族だったからか、なんだか漠然と、自分は好きになった人とは一緒にお酒を飲まないだろうな、と思っていた。お酒を飲まない人のことを好きになるだろうな、とさえ思っていた。だけど、IKEAに向かう途中に公園でお酒を飲めるような人と出会えたということは、楽しい。自分の内側になんとなく棲み着いてしまった親を殺すことは、梱包に使用されるプチプチを潰すような、無機質な快楽がある。

 たこ焼きの数が減るにつれて、プラスチックの容器が風で吹っ飛びそうになった。ビニール袋とたこ焼きが飛んでいかないよう、片手でそれらを抑えながら食べた。缶ビールも量が少なくなってくると、風で缶がカタカタと音を立てて動きはじめた。片手でビニール袋とたこ焼きの容器を押さえ、ビールの缶は太ももの間に挟みながら、忙しなくたこやきを食べた。最後に、チーズ明太子のたこ焼きが1つだけ残った。それを見たちえちゃんが「食べなよ」と勧めてくれた。性格の傾向性として、ちえちゃんは他人に与えるタイプの人間で、僕は他人に与えられるタイプの人間だと思う。ちえちゃんは、いつも他人の心配ばかりしている。

「それはちえちゃんが食べなよ。俺、チーズ明太子の方は3つ食べたし、ネギの方も4つ食べたから。ちえちゃん、まだ4つしかたこ焼き食べれてないよ。だから、それはちえちゃんが食べていいよ」

事実を知ったちえちゃんは「もぉっ!」と鼻息を鳴らしながら、最後に残ったチーズ明太子のたこ焼きを平らげた。そしてビールを飲み干すと、「酔っぱらったっ!」と、いかにも酔っ払った人間がいいそうな言葉を口にしながら、文字通り酔っ払っていた。アルコールで高揚した気分のまま、IKEAに向かった。

 IKEAは、角張った工場を青と黄色のスウェーデン色にペイントしたような建物だった。中に入ると、1階にはレジや食料品店が広がっていた。家具売り場の2階に向かおうと階段の方に目をやると、階段に座りながら休憩している人たちが目に入った。若い男と女、子連れの家族、中年の女性の3人組。郊外のIKEAにいる人たちは、人間関係に恵まれている人ばかりだと思った。その人たちを横目に、2階へと上がった。

「いらっしゃいませ。こちら、お使いください」

ディズニーランドのキャストにいそうな、テンションの高い中年の女性が出迎えてくれた。持ち手に黄色く「IKEA」と描かれた、青色の大きな買い物袋と、地図が載ったパンフレットを手渡された。地図を見ると『①ショールーム入り口』→『②ソファ・アームチェア』→『③本棚・リビングシステム収納』→『④ダイニングテーブル&チェア』→『⑤システムキッチン・食器棚』→...というように、IKEAは客が移動する導線が固定的な作りになっていることがわかった。

 現在地である『①ショールーム入り口』から『②ソファ・アームチェア』の方へ向かうと、その直前のところに、地図には載っていない開けた展示場のようなスペースがあって、最新のBlootoothスピーカーが並べられていた。それを見つけるとちえちゃんは、その中から一番大きなスピーカーに自分のスマートフォンをペアリングした。すると、スピーカーから電気グルーヴの『Shangri-La』が大音量で流れはじめた。音の大きさに驚いて、思わず隣にいるちえちゃんの顔を覗き込むと、目の前にある世界すべてを拒絶するような禍々しい目をしながら、音量を上げたり下げたりを繰り返していた。ちえちゃんは、ほんの少し目を離した隙に、まるで人が変わってしまったかのような表情の変貌を遂げることがある。『Shangri-La』を響かせたままにして他のスピーカーを眺めていると、後ろからやってきたカップルの女性が『Shangri-La』が流れているスピーカーの音量を下げ、歌を消そうとした。それに気づくとちえちゃんは、スピーカーのところまで小走りで戻ってゆき、音量を元の大きさに戻した。

 ちえちゃんは、パンクスなところがある。僕の誕生日に池袋のルミネで服を買ってもらったことがあった。途中で寄って入ったユナイテッドアローズで、服屋に慣れていない僕が店員さんに軽々と捕まった。

「冬場は、このジャケットの下にセーターなんか合わせると良いですよ」

いかにもユナイテッドアローズにいそうな、優しくて、感じがよくて、清潔感があって、過去にも未来にも僕の人生とは全く関係のなさそうな店員さんがアドバイスをしてくれた。

「この人、セーター着ないんで!」

冬服なんて一つも持っておらず、服を何重にも着込むのは重くて嫌だと話したことを覚えててくれてか、ちえちゃんは店員さんにそう言った。

「セーター着られないんですか?」
「はいっ!この人、パンクスなんでっ!」

ちえちゃんがそう応えると、店員さんは、苦笑いをするしかなくなっていた。そんなところで「パンクス」なんて言葉をチョイスするちえちゃんの方が、よっぽどパンクスな人だと思ったけど、IKEAにおいてもちえちゃんはやはりパンクスな人だと思った。

 鳴り響く『Shangri-La』を後頭部で受け止めながら、『②ソファ・アームチェア』の領域へと足を踏み入れると、色とりどりのソファが視界いっぱいに広がった。地面に置かれているものもあれば、棚の上に置かれるものもあった。少しでもいいなと思ったソファに次々と座っていった。目の前にあるどんなソファにも座ることができるというのは、もうそれだけで座り心地が良かった。色々なソファに座っていく中で、頭をもたれさせることができるヘッドレストのあるソファがいいね、というところに落ち着き、買いたいソファを一つに絞った。次に『③本棚・リビングシステム収納』でテレビ台を、『④ダイニングテーブル&チェア』でダイニングテーブルを見た。

「このテーブルはどう?」
「うーん」
「どういうのがいいの?」
「このまえ大塚家具で見た、一枚板の不定形のテーブル良かったなぁ」
「ああいうテーブルは、他の家具が合わせにくいよ。高いし」
「いやぁ、でも日によって座れる場所変えれるのって、なんかいいじゃん」
「うーん、いいよ、まかせる!」
「いや、まかせるよって言う時、絶対にまかせないでしょ」
「だって決まんないじゃん」
「色は暖かい色のやつがいいよね」
「それは、そうだね。ダイニングのテーブルの椅子はどうする?背もたれないやつもあるけど」
「片側は背もたれある椅子2つで、もう片側は背もたれないベンチみたいなのにするとか?そしたら寝たりもできるし」
「でも、誰か家に来た時は背もたれある椅子が4つとかあった方がよくない?」
「そうだけど、別に家に招待する友達とかいるかな?」
「いないかな、わかんない」
「これとかいいじゃん」
「んー、でもそれ、カバー洗えないからなぁ」

家具を決めるのは、当然のように難航した。好みの家具を伝えると、お互いがどのような生活を描いているかが、炙り出されてゆく。家具の色、形状、デザイン、値段。これまでの人生で形成してきた細かな価値観を探り合うように言葉を交わしながら、お互いが思い描いている未来を擦り合わせなければならない。ただ家具を決めるということの中に、過去から未来までの複数の問題が絡み合っていている。しかもこうした問題を、まだ出会って1ヶ月しか経っていない人としなければならない。相手のこともよく知らなければ、そんな難しい問題を擦り合わせてゆく経験値もない。もし幾多の問題が悪い方向に噛み合ってしまったら、そもそも本当に一緒に住むべきなのか、という根本問題にまで簡単に辿りついてしまうような緊張感があった。

 一通り大きい家具を見た後に、もう一度最初の地点に戻り、2周目に突入することにした。1周目でだいぶ疲れたので、『②ソファ・アームチェア』のところで休憩がてら、自分たちが購入したいと思ったソファに座った。座って辺りを眺めると、右斜め前方20mくらい離れたところに、こちらと向かい合わせの向きに設置されたソファに腰を下ろしている、中学生くらいの男の子と女の子がいた。男の子は、身体の線が細く、大きめの白色のシャツを着ていて、目元は前髪で隠れ、どこか憂鬱さを感じさせる表情をしていた。女の子の方は、黒いスウェットに、紺のジーンズ、丸みのある輪郭の、黒髪ショートヘアの女の子だった。是枝裕和の映画には出てこなさそうだけど、ちょうど岩井俊二の映画には出てきそうな、そんな子どもたちだった。その子たちはソファに横並びに座って、腰あたりをくっつけながら、男の子はスマホを、女の子はSwitchをいじっていた。時折、男の子が女の子に体重をかけたり、女の子が男の子に体重をかけたり、気怠そうな雰囲気を抱えたまま、ぬくぬくとじゃれ合っていた。

「なんであんな子たちがIKEAにいるんだろ?」

その子どもたちに気づくと、ちえちゃんが言った。

「高校生くらいかなぁ」
「いやぁ〜、中学生くらいじゃない?」
「そんな子たちが家具なんて買う?」
「買わないんじゃない?」
「あー、わかった。ここを遊び場にしてるんだ」

中高生の頃、ジャスコのフードコートで友達となんとなく集まったりしたことを思い出した。そのIKEA版なのだろう。

「そうかもね。俺も高校生の頃とか、無駄にジャスコとかに遊びに行ってたし、そういう感じかもね」
「ここならいくらでもソファでゆっくりできるし、フードコートもあるし、いい遊び場だね」
「いい遊び場見つけてんねー。羨ましいなぁ」
「たぶん、あの子たちセックスしてると思う」
「距離感的に?」
「うん」

ちえちゃんにそう言われてから、目の前の子どもたちがセックスをしてる可能性を視野に入れ、改めてその子どもたちの方を眼差した。確かに、セックスをしてる人たちの距離感に見えてきた。

「もしかしたら、あの子たちの方が、俺よりもセックス経験豊富かもね」
「そうかもね。あっ、目が合った」

ちえちゃんが中学生のカップルの方をニヤニヤしながら見つめていた。僕は、この子たちは僕よりもセックスの経験があるかもしれない、という意味を込めた視線を注ぎ続けた。男の子も女の子も、こちらに視線を送ったり逸らしたりを繰り返した。この子たちは、僕たちに見られて何を思っているだろう。もし僕が中学生だったら、大人にからかわれているという気持ちと、からかわれているにしても大人の女性にニヤニヤ見つめられて嬉しいという2つの気持ちが、生じていたと思う。実際にその子どもたちがどう思っているかはわからないけれど、年齢が2倍近くある大人が「この子たちは俺よりもセックスをしている可能性がある」という視線を注いでいるとは、全く想像できないのではないだろうか。年齢を重ねた大人である自分が、子どもが想像できないくらいに愚かであることを知っている点において、僕はこの子たちよりも遥かに大人なのだと実感した。

 子どもたちが座るソファの後ろには、お客さんが流れるように歩いていた。IKEAでは、客は指定された通りの進路で整然と並べられた家具を眺め、情報を調べたければ、ショールームに点々と置いてあるPCで検索をする。そのシステマティックに設計された売り場には従業員はほとんどおらず、客はデザインされた通りに滑らかに動いて次の売り場、次の売り場へと半ば自動的に駆り出されてゆく。家具なんて買う気のないイチャイチャできる場所がほしいだけの子どもたちも、その子どもたち眺めてニヤニヤしている僕たちのような人間も、移動し続ける他の客の誰にも注目されることもなかったし、存在しない従業員に注意されることもなかった。数年前にインターネットで見た、IKEAでセックスをする外国人のアダルト動画を思い出した。IKEAには、そうした性的欲望を喚起させる土壌があるのだと思った。画一化・効率化された匿名空間の間隙に、中学生が嗅ぎつけるような、性的な自由空間が息を潜めているのだ。

「あれ?このソファ、長く座ってると首痛くなってくるね」

購入しようとしていたソファに10分以上も座っていると、首が疲れてきたことに気がついた。

「このソファ、ヘッドレストのところが前に出過ぎてるからかな?そっちにあるソファなら、あんま前に出てないからいいんじゃない?」

隣に置いてあった、ヘッドレストが浅めのソファに移動した。

「ソファは長く座るものだから、長い時間をかけて座り心地を考えた方がいいね」
「うん、そうだね。ねぇ、2周目はどの家具にするか決めるよね?」

ちえちゃんが聞いてきた。

「そうだね、決めたいね」
「決まったら、もうここで買うでいい?」

そう言われて、今日IKEAで家具を購入を決定するかどうかを、真剣に話し合わずにいたことに気がついた。僕は、次の週に千葉の幕張メッセで70の会社が集まる家具大バザールというイベントがあるので、そのイベントにも行きたいと思っていた。

「うーん、来週の週末、千葉の幕張で家具大バザールがあるから、そこでも家具を見たいんだよね」

今日はそのために選ぶ家具の傾向性がわかればいいくらいの気持ちでいた。ちえちゃんから返事がなくなった。それから、鼻をすする音が聞こえた。横を見ると、ちえちゃんが笑いながら、涙を拭っていた。

「どうしたの」

驚いたままに声をかけた。

「ねぇ、私、今日は家具を決めにきたのに。引っ越しの準備とか家具を決めるのとか、やることが多すぎて頭がパンクしちゃってるから、今日はそれを少しでも減らすために来たのに」
「うん…」
「だって、ソファもうこれでよくない?来週幕張に行くっていっても、これと同じくらいのクオリティで少し安くなるとか、デザインが少し変わるとか、他の色を選べるようになるとか、それくらいの違いしかないでしょ?そのために来週幕張まで行く意味なんてあるのかな」

言われてみれば確かにそうだ、と思った。もし、コストパフォーマンスという観点から考えるならば、わざわざ時間と労力とお金をかけて幕張まで行かず、今ここでIKEAで購入を決めた方が良いだろう。それはものすごく合理的な考えだと思った。幕張メッセで70社の家具を見てから決めたいという自分の欲望は、コストパフォーマンスを考えると非合理的なものであった。しかしそれを考えても、幕張メッセに行きたいという気持ちは強かった。いろんな家具の可能性に触れたかった。いろんな家具の可能性に触れたいという、それ以上でもそれ以下でもない、端的な欲望だけがあった。だから、その非合理な気持を、そのまま垂れ流そうと思った。

「うーん…、これは、可能性の問題だね。たしかに、これ以上いいものを探すのは労力に見合ってないかもしれないけど、俺はただ、可能性に触れたい。70社がやってくる幕張の家具大バザールに行って、たくさんの可能性に触れた上で選びたい」
「わかった。じゃあ、IKEAで買いたいものは今日写真に撮っておいて、来週、幕張に行って見つからなかったらオンラインでIKEAのものを買おう」

非合理的な気持ちをただただ垂れ流した僕に対して、ちえちゃんは建設的な返事をしてくれた。それから、続けて言った。

「ソファとテレビ台とダイニングテーブルは、IKEAで買うならってものは今日決めるからね」
「うん、ソファは今座ってるやつが一番いいよね」
「そうだね、これにしよう」

長く座っていた甲斐があってか、ソファは座り心地のよいものでスムーズに確定した。続けて『③本棚・リビングシステム収納』でテレビ台を、『④ダイニングテーブル&チェア』でダイニングテーブルを確定するために、ソファから立ち上がり、まず『③本棚・リビングシステム収納』へ向かった。

「早く決めろよっ!テメェ!!!」

テレビ台を探していると、突然、女性の野太い怒号が響いた。声のした方に目を向けると、明るい茶髪に、黒のキャップを被った若い女性が、怒り顔で居た。その女性が、三歩後ろをのほほんとした顔で歩く彼氏と思われる大柄の男に向かって、怒鳴ったようだった。

「私も表情が笑ってるだけで、あの女の人と気持ちは一緒だからね」

ちえちゃんが笑顔で言ってきた。まるで自分も怒鳴られたような気持ちになって、心拍数が上がった。早くテレビ台とダイニングテーブルを確定させなければ、と思った。1週目に見た時に、ちえちゃんと「これいいね」と言い合ったものを探した。

「テレビ台、これにしようよ!これ、いいじゃん!」
「本当にこれでいいの?」
「うん、本当!これ、いいじゃん!前面の扉がおしゃれだし!」
「じゃあテレビ台はこれね」
「うん」

次に『④ダイニングテーブル&チェア』へと向かい、ダイニングテーブルを探した。

「テーブルも、これが一番いいじゃん!」
「本当に?」
「うん。暖かい色のものがいいって言ってたじゃん?これが一番暖かい色でいいじゃん!IKEAは白色のテーブルが多いから、他に暖かい色のやつ見当たらないし」
「じゃあダイニングテーブルはこれね」
「うん」

よいと思ったものを、よいと口にすることを意識したが、その意識的にしようと駆り出された気持ちは、ほとんど無意識的だった。ちえちゃんに気を遣っている感じがした一方で、選んだ家具を見て本気でよいと思っている自分もいた。そうした矛盾した気持ちが「いいじゃん!」という言葉に統合された。「早く決めろよっ!テメェ!!!」という怒号が鳴り響いてから、「いいじゃん!」という言葉が僕の身体の中で大きくなって、「いいじゃん!」と自分の区別がつかなくなった。僕が「いいじゃん!」で「いいじゃん!」が僕になった。いいじゃん!いいじゃん!これ、いいじゃん!

 こうして、ソファとテレビ台とダイニングテーブルが決まった。大きな家具のエリアが終わった後は、様々な雑貨が売っているエリアに入った。

「うん!いい、いい!これでいいよ!これで!」

雑貨売り場の入り口のところで、家族連れのお父さんが明らかに不貞腐れた顔をしながら、妻と息子と向き合いながら「これでいいよ!これで!」と言っている姿が目に入った。IKEAでは、同一の問題が複数の箇所で発生しているようだった。売り場の後半である雑貨売り場辺りになってくると、IKEAで買い物を初めてから1時間も2時間も経過してストレスを溜めた人たちが増えていて、入口付近とは違うピリピリとした緊張感が渦巻いていた。

 雑貨売り場を当てもなく彷徨っていると、思いつめた表情で、ただならぬ空気を醸し出している若い男と女のカップルがいた。その二人は、もはや棚に並べられた雑貨も、周りの人間も、何もかもが視界に入っていないと傍からでもわかるほどに、大きな緊張を発していた。僕とちえちゃんはその緊張に触れると、思わずそのカップルが立っている棚の向こう側に、存在を潜めるようにしゃがみ込んだ。

「あの人たち、めちゃくちゃ喧嘩してるね」
「うん。女の子、泣いてるじゃん。かわいそ~」

心配そうな顔でちえちゃんが棚の向こう側を覗き込んでいた。すると、男の低い声が響いてきた。

「なんでそんなに完璧を求めるの? 僕は、今日で全てを決めようと思ってるわけじゃない。今日はこうやっていろんな家具が見れて、進歩したと思ってる」
「違う。私は、やることがいっぱいありすぎるから、今日はできるだけ家具を決めたいの」

女性は表情を歪ませて、涙を拭いながら応えていた。

「わかるわ〜、どっかで聞いた話だね」、ちえちゃんがこちらを見ながら呟いた。「そうだね」と気まずく応えると、棚の向こう側の男が、泣いている彼女に言った。

「いや、だから、君は完璧主義すぎるんだよ」

決め台詞のような、「完璧主義すぎるんだよ」という言葉を聞いて、その言葉のチョイスはどうなのだろう、と思った。今日はIKEAで家具の傾向性を学習し、後日、他の店でも検討する。そんな考え方のほうが、よっぽど完璧主義的ではないだろうか。自分が完璧主義である可能性を疑わないまま、他人のことを『君は完璧主義すぎるんだよ』と詰めている。そこには、偽の問題が生じていると思った。僕は偽の問題で他人を詰めるような人は苦手だから、自分は同じような状況で自分の非合理さを垂れ流すだけの道を選んでよかった、と安堵した。

 勝手に一人で安堵した後に隣を見ると、いつの間にかちえちゃんの姿がなくなっていた。棚の隙間から向こう側を除くと、ちえちゃんが、喧嘩している男と女のすぐ近くで商品を選んでいた。僕も棚の向こう側に行こうと立ち上がると、

『ゔぅぅぅ〜〜〜〜』

と、ちえちゃんが痛みを抱えたような複雑な笑顔で唸り声をあげながら、片手に何かを持って戻ってきた。縦長の、六角柱の箱だった。その箱は、横に広げると、内側に3つ積み重なっている小さな六角柱が階段のように段々に広がり、上から3つの箱それぞれに小物を入れることができる作りになっていた。小物入れでありながら、ディスプレイにもなる「ANILINARE」という名称のデコレーションボックスだった。

「それ、何に使うの?」

便利そうでありながら、一見して用途がわからなかったので聞いてみた。

「わからないけど、あの女の子がかわいそうで、何かを買わないと、あそこから離れられないと思ったから」

そう言って、ちえちゃんはその六角柱の箱を買い物袋に入れた。それまで空だった買い物袋を握る手に、初めて重さが加わった。それから、ちえちゃんが木製のカラトリーケースを一つ持ってきた。

「これ買うの?」

カラトリーケースのような小物なら、引っ越してから買うでもいいのではないかと思った。

「うん。なにか買わないと、ここに来た証が無いから」

そう言いながら、ちえちゃんはカラトリーケースを買い物袋の中に入れた。買い物袋を握る手に、また一つ重さが加わった。その他には何も買わず、1階に降りて、レジへ向かった。結局、この日に買ったものは2つだけだった。木製のカラトリーケースと、六角柱のデコレーションボックス。それは、ちえちゃんがIKEAに来た証と、「君は完璧すぎるんだよ」と、彼氏に言われて泣いていた女の人がIKEAに来た証の、2つだった。

 レジを終えてIKEAを出ると、昼だった空がすっかり夜になっていた。買い物の緊張感から開放されて、涼しい空気が美味しく感じられた。

「疲れたから、タクシー乗りたい」

大通りを走り去る車を眺めながら、ちえちゃんが呟いた。

「タクシー乗る?」
「う〜ん。でも、これからの目標は、タクシーに簡単には乗らないことだから」
「じゃあ歩いていく?」
「うん」

イケアから駅の方へ向かって歩くと、道の右側に大きな病院が見えた。建物の一番上に掲げられた『立川相互病院』という白光りした大きな文字が、透き通った暗い空の中で整然と輝いていた。

「あの『立川相互病院』って文字、かっこいいフォントだね」

ちえちゃんが文字を見た後に、緑色に光っている病院の内側を覗いた。

「そうだね。病院自体も派手じゃないけど、地味ってわけでもなくて落ち着いていて、いい感じだね。病院の中もキレイだし、なんかセンスがあるね」
「うん。ところで、相互病院ってなんだろうね」
「相互...?なにが相互なんだろうね」
「誤植かな」
「えっ?」
「『総合病院』の誤植かもね」
「ふふっ」

思いついたボケをそのまま呟くと、ちえちゃんがお腹あたりの内臓を震わせるように笑った。その笑いが感染りはじめたのか、澄んだ空気のなか整然と輝く『立川相互病院』という文字が誤植であることを想像し続けると本当に可笑しいものに思えてきて、僕の内蔵も震えはじめた。

「ふふっ」
「ふふふっ」
「ふふふふふふっ」
「ふふふふふふっ」

「はぁーあ、こんなことで笑うとか、疲れてるんだろうね」、笑いが止んだところで、ちえちゃんが呟いた。心も身体も、満身創痍の状態だった。そのまま足を引きずるように立川駅まで歩き、電車でそれぞれの家に帰った。

 次の週の土曜日、千葉の幕張メッセで開催された家具大バザールへ行き、そこでダイニングテーブルを購入した。テレビ台はちえちゃんが持っているものをそのまま使うことに決めて、結局、IKEAのオンラインショップで購入するのはソファだけになった。ちえちゃんのことを泣かせてしまった証だけが、新居にやってくることになったのだ。


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