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上野恩賜公園で

 それがマナー的によろしくないことも、別に僕が咎めないことも、自分は欲望に忠実な人間であることも、そんなことは全てわかっている、とでも訴えかけてくるような不穏な笑顔をこちらに向けながら、他の乗客には見えないように、ちえちゃんが明太子おにぎりを口いっぱいに頬張っていた。上野駅へと向かう、電車の中だった。

 同居人のちえちゃんと初めに上野動物園に行こうと約束したのは、11月23日のことだった。その日はお昼過ぎに起きて、外出する準備が終わった頃には14時半になってしまっていて、動物園に行くのを諦めた。その次の週はちえちゃんと喧嘩をしていて、さらにその次の週は寒くて2人とも体調を崩していて、動物園に行くのを諦めた。さらにその次の週の12月14日、2人とも体調が少し悪かったけれど、2人の関係性も、天気も、起床時間も、動物園に行くには充分なものだったので、上野動物園に行くことにした。初めに約束をしてから、4週間が経過していた。

 一緒に住んでいる家の近くの『オリジン』でおにぎりを買って、駅へと向かうことにした。ちえちゃんは明太子のおにぎりを、僕は醤油いくらのおにぎりを手に取った。オリジンのおにぎりは意外にも値段が張って、1つ200円を超えていた。「楽をしようとすると、すぐにお金がかかっちゃうね」そう言いながら、ちえちゃんは明太子のおにぎりを買った。そのおにぎりを片手に、駅のホームで電車を待った。次に電車が到着する時刻を確認してから、逆算するように、醤油いくらのおにぎりを食べた。オリジンのおにぎりは、海苔と米の境界線がなだらかだと思った。ホームの向こう側から電車の顔が見えてくると同時に、最後の残り一口を口の中に突っ込んだ。それから隣に目をやると、ちえちゃんが明太子のおにぎりを、まだ半分くらいしか食べ切れていなかった。こちらの視線に気づいたちえちゃんは、眉間に皺を寄せて「はぁーっ」と小さく口を開き、怒りを顕にしていた。おにぎりを食べきれなかった自分を責めるのでもなく、到着してしまった電車に怒るのでもなく、電車が来たのにまだ半分もおにぎりが手の中に余っている、そうした目の前の出来事にまるで裏切られたみたいに、怒りを表明していた。

 上野駅の公園改札を出て、すぐ目の前の横断歩道を渡ると、東京文化会館が現れた。山手線の車内でも広告が流れていた『ミイラ展』が開催されていた。その傍らの道を、上野動物園の方に向かって歩いた。文化会館の建物が日光を遮り、道の半分が日陰になっていた。歩くと、冷たい空気に晒された。しばらく進むと、紅葉した葉がほとんど抜け落ちてしまったイチョウの枯れ木と、緑の葉をこれでもかと携えた大きなクスノキが重なり合いながら、道の両端に門のように立ちはだかっているのが見えた。クスノキの緑の葉の一枚一枚に、自らの子を宿すかのように低い位置から太陽が日を降り注ぎ、それぞれの葉が、それぞれの角度で日の光を反射させ、オリジナルな陰と陽の模様を一枚の葉の中に携えていた。冷たい微風の中をゆらゆらと踊るように揺れるその緑を見ていると、今まさにそこを通過している風の形を、目で掴めたような気持ちになった。

「はいっ!」

ちえちゃんが、授業中に挙手をする子供のような声をあげた。

「はい、なんでしょう」
「ホッカイロがあったら、買いたいです!」
「売ってる場所があったら、買おうね」

イチョウの枯れ木とクスノキの門をくぐると、日陰の一切ない、ひらけた四差路に出た。右側には国立博物館が、左側には葉一つ生えていない、裸のソメイヨシノが道の両脇に幾重にも並んでいて、道のずーっと向こうの方まで、道行く人の頭上の青空を覆うようにアーチを形づくっていた。裸の枝に日差しの白銀を咲かせていたソメイヨシノの枯れ木を見ると、春の桜の残像を目に映さずにはいられなかった。

「あ、なんかやってるね」

ひらけた四差路の一番近くに佇むソメイヨシノの木の下で、人だかりが半円をつくっていた。申し合わせたかのように、僕とちえちゃんは一緒にそちらの方に向かって歩いた。若くて清潔感があり、どこかやんちゃな少年っぽさを感じさせる若い男の人が、その半円の中で出し物をしているのが見えてきた。

「オォォォオオオオオッ!」
「お兄さん、めちゃくちゃいい声ですねっ!ありがとうございます!」

観客の一番端に立っていた、緑の蛍光色のジャンバーの黒縁メガネの男が、独りで大きな歓声を挙げ、パフォーマーのお兄さんがそれに応えるようにお礼を言っているところだった。マイク越しの、優しい声色だ。

「実はね、いい声援をしてくれてる兄さんは、前も見に来てくれていたんですよ。ね!今年はね、東京オリンピックのせいで、コミケでパフォーマンスできないんです。今日はその分も声援、お願いしますね!」

パフォーマーのお兄さんと、緑のジャンバーの男の蜜月な関係が、観客に開示された。

「それでは次、これやります」

そう言うと、パフォーマーのお兄さんは地べたに置いてあったアタッシュケースから、ルービックキューブを2つ取り出した。1つをそのまま地べたに落とし、「これ、すぐ戻せるんで」と言いながら、もう1つのルービックキューブを10秒もかからない内に全面同じ色に揃えた。

「お父さん、これ好きなだけ回してもらっていいですか。どんなに回してもらっても、絶対に11秒で完成させますんで!」

半円の中央にいた子連れの男性に、ルービックキューブが渡された。パフォーマーのお兄さんはまた元の位置に戻り、改めて観客に復唱した。

「どんなに回してもらっても、絶対に11秒で完成させますんで!」

ルービックキューブを渡された男性が、連れていた娘と思われる小さな女の子に不揃いになったルービックキューブを渡すと、その小さな女の子が明らかな躊躇と共に、お兄さんの方に一歩ずつ歩み寄っていった。観客の注意は、その女の子に注がれた。「大丈夫?怖くないよ。お兄さん、怖くないからね?」パフォーマーのお兄さんが優しく女の子に近づいてルービックキューブを受け取ると、その小さな女の子を讃えるかのように、辺りからは微笑が生まれた。

「11秒で完成させますんで、どなたか、11秒測ってもらってもいいですか?」

黒いダウンジャケットと黒いニット帽を被った、身長190cmはありそうな体格のよい欧米の男が、スマホを頭上に上げた。パフォーマーのお兄さんがその外国人に目配せをした。

「スリー、ツー、ワンで、11秒お願いします。Eleven seconds!! OK!?」

欧米の男が頭の上で「OK」と、ジェスチャーをつくった。

いよいよ始まる、と思いきや、パフォーマーのお兄さんが力を抜いて、身体を弛緩させた。「ここで打ち合わせをしておきたいんですが、」そう言いながらマイクを外し、地の声を張り上げた。

「いつもだったら、パフォーマンスすれば100人とか200人とか集まるんですけど、見てください、今日はざっとみて50人くらいしかいないですよね。今からこのルービックキューブを11秒で完成させます。もしかしたら、失敗するかもしれません。そしたら、このアタッシュケースの中からもう一つ、もう既に全面揃ってるルービックキューブを取り出して上に挙げますので、そしたら皆さん『オーーーっ!』って歓声をお願いしますね!そしたら、なんだなんだ!って人が集まってきますんで!今日のパフォーマンスの成功は、皆さんに懸かってますからね!」

観客も共犯関係に巻き込むような、ユーモアのある演出だった。「はははっ」と、隣でちえちゃんが楽しげな笑い声をあげていた。リビングで面白い動画を一緒に見ている時のような笑い声で、リラックスしているのだと思った。

「それでは、行きます」

天高くに上げられた3本指が、スリー、ツー、ワンと、1本ずつ折り曲げられていった。それに合わせるように欧米の男が、頭上に上げたスマホの画面をタップした。それから11秒が経過し、アラームが鳴り響いた。ルービックキューブは、揃っていなかった。約束通り、お兄さんが足元にあるアタッシュケースから全面揃っているルービックキューブを取り出す、はずだったが、揃えられなかったルービックキューブを手に持ったまま、しばらく観客の方に目をやり、ニヤニヤしながら呆然と立ちすくんでいた。

「おぉ…?おぉ?おーーっ?」

緑のジャンバーの男が、盛り上がりどころを見失っていた。他の見ている観客も、どうしたらいいのかわからなくなっていた。しらけた空気が流れ出したころ、パフォーマーのお兄さんが、地べたに置いてあった、もう一つの色の揃っていないルービックキューブをしゃがんで手に掴み、先まで自分で回していた、揃えられなかったルービックキューブの上にそれを重ね、観客の方に視線をやった。地べたに置いたままにされていたルービックキューブと、先までお兄さんが動かしていたルービックキューブが、全く同じように不揃いに、全面のブロックが並べられていた。そのことに気づいた観客から順に「おーーっ!」という歓声があがり、やがて拍手の音に包まれた。

「オォォォオオオオオーーーーーーーッ!!!!!」

緑のジャンバーの男も、ここぞとばかりにお腹から声を出した。半円の一番隅っこで、観客の方を向いて歓声をあげていた。彼も半分、パフォーマーになっていた。

「本日はありがとうございました。長崎からの交通費は自腹で、ギャラも一切出ていません。もしよろしければ、こちらに帽子を置いておきますので、評価のほど、よろしくお願いします。貰いにいくと強制っぽくなってしまいますので、こちらでお待ちしております」

ちえちゃんは一瞬、隣から僕の方を眼差した。緊張しているのか、唇が絵に描いたような真一文字になっていた。それから半円を崩すように、誰よりも先に早歩きで帽子のところに小走りで向かっていった。その帽子の中にお金を入れて、元の場所に立ちっぱなしだった僕のところに戻ってくるかと思って待っていたら、上野動物園の方角に一人で歩きだしていった。一歩、二歩、三歩、四歩、しばらく離れた冬日向の真ん中で、こちらを振りかえった。目が合った。初めて出会った頃のように無名な人になっていて、コートの色も、肌の色も、表情も、冬の横日に照らされて、真っ白だった。悔しいな、と思った。その女性よりも少しだけ大きく、消え入りたいと思った。




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