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長々と雑に紹怪【袖引き小僧】

袖引き小僧とは

初回は袖引き小僧をテーマに取り上げていこう。
袖引き小僧というのは、夕暮れなどの時間、通りなどを歩いていると後ろから袖を引いてくる妖怪である。
袖を引かれて振り返るがそこには誰もおらず、気のせいかと向きなおすとまた引いてくる。という悪戯めいたことを行ってくるとされる。
水木しげる御大の著書では姿を与えられてはいるものの、現象としての妖怪として捉えてよいものだと思われる。

意外なことに、伝承としてはどこにでもありそうな現象としての妖怪なのだが、「袖引き小僧」という名を冠した場合、埼玉県の一部地域に特定される妖怪のようだ。
他地域の人たちが気にも留めない程度のことを妖怪扱いしてしまうほど、当時の埼玉県民が臆病だったということなのか。ということも考えられなくはないのだが、
たとえば現代であればこの袖引き小僧現象は、妖怪と思われることはなく、気のせいで済ますのでなければおそらくは心霊現象として扱われる事案なのではないだろうか。
当時においてもこの現象は、どちらかといえば幽霊が引き起こすものと思われてしかるべきものなのではないだろうかと想像する。
埼玉県一部地域においてのみこれが妖怪として扱われるのには、なにか風土的な理由もあるのかもしれない。いずれこのことについて考察を進めることができたときには加筆したい。
(もっとも伝承に残っていないだけで、他地域にも妖怪として扱われていたところがあったのかもしれないのだけれども。)

袖引き小僧の正体

一般に、袖引き小僧の正体とされるものには諸説あるが、主だった説は以下の3つである。
①落ち武者の霊
②袖引き狢
③殺された子供の霊
もしこの3つに絞られるのであれば、当方では③の説を推したい。

「落ち武者の霊」説

前述の通り、袖引き小僧は見える姿を持たない妖怪である。しかし、名称に「小僧」を関する以上「小僧」を連想する要素はあるはずで、おそらくそれは、「袖を引かれた際の角度および力加減」に他ならないと予想する。
もし袖引き小僧の正体が落ち武者の霊であるとするならば、落ち武者が立ち姿勢の場合、袖を引く角度は水平、もしくはそれよりも高い位置からのものになるであろうし、はいつくばっている場合であれば、かなり下方向からの引っ張りとなる。子供を連想させるような袖を引く角度を落ち武者が行うケースを想像するならば、おそらくは正座ないし体育座りとなるのではないだろうか。少々情けない姿を連想させる落ち武者である。

「袖引き狢」説

袖引き狢はそもそも別の妖怪としてあつかってよいものと考える。
袖引き狢は現茨城県つくば市に出没記録のある妖怪で、妊婦の発するにおいに発情し袖をひっぱるとするものだが、私個人の勝手な憶測として、かつて昔、出産後に残った胎盤などをどのように処分ないし扱っていたのか分からないが(一部では妊婦に食わせるという話も聞いたことはあるが)、仮に普通に捨てていたとして考えると、それこそ狸や鼬など肉食性の小動物にとってはこの上ない食料だったと考えられる。中にはその胎盤、場合によっては中絶した胎児などもだが、それに味をしめた狸や穴熊などが、その匂いを辿って妊婦の衣服に噛み付くなどすることがあったとは考えられないだろうか。
これが私の考える、袖引き狢の正体である。

「殺された子供の霊」説

この説は、かつてその地においてある武士の家の幼い子供が、深夜に帰ってきた父の帰りを喜び駆け寄り後ろから袖を引いたところ、父はこれを不審者と勘違いし切り捨ててしまった、というなんとも理不尽で救いのない逸話がもとになっているようだ。それ以来、この子供の霊は親を求めて、道行く人の袖を引き続けている、というもので、なんだか一気に可愛げな妖怪という形が身を潜めてしまう。
しかし子供の霊が正体だとした場合、あまりに行動が単一過ぎやしないかという疑問が残る。親を求める、寂しさを訴えるなどからの心霊現象であるなら、他にも姿を見せたり、泣き声を聞かせたりと色々ありそうだが、やることは袖を引く「だけ」。このあたりが「妖怪っぽい」と言えなくもないのだが、その行動には「知性」が感じられない。
そこで私個人の仮説だが、おそらく「残留思念」という言葉は聴いたことがあると思う(たとえば何らかの恨みを残して亡くなった人の霊魂がその場を離れ、しかしその恨みつらみの感情のエネルギーだけがそこに残り続け、人や土地にエネルギーを与えたりするものを言う、と著者は勝手に解釈しているので、この場ではそのような意味で扱って欲しい)。意思が消えて念が残ることがあるならば、意思や念が消えて「行動」のみが残る、なんてこともあるかもしれない。あえて名付けるならば「残留行動」とでも呼ぶべきか。子供の霊そのものならそれは「霊」である。しかし袖を引くという行為のみが残ったものであるならば、それば現象としての「妖怪」と呼ぶに相応しいのではないか、と考える。

袖を引く意味


先ほどまでの論点では、袖引き小僧を「袖を引くだけの怪異」として捉えて考察してみたが、ここからは袖を引くことに何かしら意味があるのでは、と考えて論じてみたい。
以前ネット上で、どこかの大学の論文で「袖と怪異の関係」について書かれたものを読んだことがある。うる覚えだが、袖は衣服の内と外、つまり異なる空間の境であるとするものだとか、袖の合間から目を覗かせると、この世ならざるものが見えるとするといった文化風習について書かれていた。そのような意味を袖がもっているということは、袖を引くというのはいわば「異界を開く」という行為になるのではないだろうか。袖引き小僧そのものは力の弱い怪異なれど、異界を開いて魔(厄災)を引き寄せる存在として考えるならば、なかなかに恐ろしい妖怪といえよう。
西日本を中心とした一部地域には「袖もぎ様」という神とも妖怪ともつかない存在が奉られている。これはその社の前で転んだ際袖をもいで奉納しないと大変なことになるというものだが、視点を変えるとそれこそその場所には異界を開く何者かがいて、転んだのは厄災を開かれた証拠であり、袖を破り捨てることで異界を閉じるという意味合いをもつのではないだろうか。

袖”に”引く

さらに別の視点をもつならば、袖引きとは「袖を引く」のではなく「袖に引く」と捉えることもできるのではないだろうか。舞台袖という言葉があるが、人生をひとつの演劇などに例えるならば、袖に引くとはいわば出番が終わるということ、つまり引かれた先はあの世ということも考えられる。そう考えると、袖引き小僧とはとても「ただいたずら好きな無害な妖怪」とはいえなくなってくる。

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