7月29日 「厳しいって」言われる側視点

 前にやったときは無理難題にしか思えなかった一か月連続投稿が、気づけば今日で達成されるようです。これを成長と呼ぶべきか……などと長々自嘲を挟みそうになったんですけど、これは成長と呼んでいい気がします。何でもかんでも卑下してても何にもならないですからね。それはそれとして、世の中の人々はもっと何にもならないことをしてもいいと思います。

 爽やかな好青年みたいな人が「はじめは辛い、しんどいって感じてたんですけど、今になってやっててよかったなって思いますね」みたいに部活動やクラブ活動に打ち込んでいた思い出を振り返っているのを見るたびに、自分にそういう経験が一切ないことを自覚して不思議な気持ちになります。はじめはつまらなかったけど後半面白くなってきたもの、は普通に思い出せるんですけど、「これって意味あるのかな」とか「他の事をしたいな」とか考えてた過去を思い返しても「あれは無駄な時間だったな」という感想しか出てきません。叱られた記憶と理不尽に怒られた記憶も別々にあって、理不尽に怒られた記憶のことは今でも「あの時は理不尽に怒られたなあ」と思っています。例えば、小学校の先生が怒って職員室に帰った後に「謝りに行った方が良いんじゃない?」という空気が広がる中で、ひときわ責任感の強い子だけが決起して行動を起こし、それなのに素知らぬ顔で遊び惚けていた自分も含めて「みんなが反省してくれて嬉しい!」みたいな扱いをされて全然ただ乗りしてるだけなのにな、と座りの悪い思いをしたり。かなり悪い成功体験というか、ここから私は一体何を学べばいいのか。
 「これって意味あるんですか?」という発言自体が、一種の”冷笑”と捉えられるようになっていることに未だに納得がいかないんですけど、自分で何の意味があるのかもわからないことを黙々と頑張るのってかなり苦痛じゃないですか。モチベーションをどこに置けばいいかわからないというか、そんな暗中模索をみんながみんなやっているんでしょうか。「楽しい」とか「スキルが身に着く」とか「金になる」とかあたりのちゃんとした理由があるならともかくとして、上のエピソードにはそういうのも無いですし。

 何にもならないことをしたっていいなどと書いていた自分がこんな話を展開していて驚きなんですけど、何と私自身驚いています。意見がふらふらしすぎている。
 多分、行動に意味がないことや意味がないことをわかった上でするのは許容できても、それが「将来のためになる貴重な経験」として語られると途端に納得がいかなくなるのだと思います。我ながら細かいことを気にしすぎでびっくりです。だるい右京さんになっちゃった。


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