東渋谷駅
わたしは疲れていた。すべてに疲れていた。
彼と夜を過ごすと、いつもこうだ。わたしの身体を乱暴な手つきで弄って、ああ、愛してるって。
本当に愛しているのなら、わたしの曇った顔に気付いてよ。もうすっかり乾いてしまったわたしの瞳に、唇に。気付いてよ。
嫌い。大嫌い。
彼が夢見心地に溺れている間に、抜け出してきた。始発電車に乗って、逃げてやる。どこまでも遠くへ、そして、彼にはもう二度と振り返ってやらないんだから。
決めたから。
駅の改札を抜ける。午前四時。まだ誰もいないホームに降りるとわたしはイヤホンをつけて、暗闇の中、電車のあたたかなライトが頬を照らすのを待っていた。
そして、車輌は来た───。
その車輌は、見慣れない顔をしていた。
先頭で率いるのはボロボロになった電気機関車で、後ろには同じく今にも崩れ去りそうな客車が三両、繋がっていた。
おかしい。
ここは東京、それも目黒から渋谷に跨る一等地。普段は洗練された新しい車輌が走っている筈なのだけど、目の前に停まっている車輌は、周りを取り囲む都会の印象とは余りにもかけ離れたみすぼらしさを感じさせている。
それに。
先頭車輌の運転席に、人の姿はなかったのだ。
でも。わたし、逃げなくちゃ。このままホームでひとり後の電車を待っているだけ、背中が寒い。
意を決して、一番先頭の客車に乗り込んだ。靴のせいで些か不安定なわたしの足がホームの混凝土から離れ、客車の黴びた床を踏む。
刹那。客車の扉は勢いよく閉まり、ゆっくり、ゆっくりと、車輌は渋谷に至る軌道に沿って動き始めた。
客車に、人間はわたし一人きりだった。その他の生き物といえばせいぜい、吊り革に掴まって翅を休めている鮮やかな熱帯の蝶くらいしかいなかった…
…いや、待て。
何かが、おかしくないか。
車輌は中目黒の駅を通り過ぎて、トンネルの中に入ろうとしている。
しかし、客車の揺れが酷い。それに、椅子にはクッションがないので、尻が痛くなってきた。普段通勤電車しか乗らないわたしには、この奇妙奇天烈な始発電車の乗り心地は非常に悪く感じられる。
わたし以外、誰も人のいない客車に、乗務員のアナウンスが鳴り響いた。
生気のない、男の声。
「本日もご利用いただき、誠に有難う御座いました。次は東渋谷、東渋谷。終点です。お客さまにおかれましては、忘れ物なさいませんようにいま一度お確かめ下さい…」
何処、声の主は。
あちこちを目で追うが、遂にその姿を見ることはなかった。
動揺を隠せぬまま時間は過ぎてゆき、代官山の駅はとうに過ぎて仕舞った。再び地下に潜り、地下鉄と繋がるはずだった車窓は、しかし、かつてこの路線が地上を闊歩していた頃の軌道に沿ってスクロールしていく。
線路は引き払ってしまった筈だろう、どうやって…。そんなことを考えているうちに車輌は急カーブを曲がり、在りし日のターミナルへと腰を下ろす。
と、思っていたのだけれど。
列車が停まったのはわたしの知らない、全くの異世界だった。
空は紅く染まって、人は誰もいない大都会。廃墟となった建物が軋んだ音を立てて、あちこちで崩れようとしている。わかりにくく喩えるならば、そう、幻想郷の空集合のような空間。大失敗して、人の滅した九龍のようでもあった。
「東渋谷駅」
ひび割れたホームの梁に粗末に取り付けられた柱には、駅名の標札がかかっている。隣駅の表示はない。ここが出発点であり、そのまま、終点でもあるようだ。
わたしは客車を降りた。すると、派手な熱帯の蝶もまた、列車を降りて後ろから近づいてきて、わたしの肩にとまった。
その直後。わたしは廃墟ひしめく視界の隙間、上空に恐ろしいものを認めた。
蝶の、群れ。
数匹じゃない。数億匹はいるだろう。紅い空をどす黒く覆い隠す集合体が、羽音を立てながらだんだんと此方に近づいてくる。
わたしは肩にとまる蝶が、翅を揺らして奇妙な光を発しているのを見た。
交信をしているのか、或いは。
わたしを、彼方へと誘っているかのようでもあった。
気味が悪い。
わたしは、逃げた。不気味な蝶を払い退けてから、東渋谷駅の改札を出ようと、足元のおぼつかないまま駅舎へと向かって駆けていく。
プラットホームは、不必要なくらいに長かった。やっと駅舎に着いた。電子マネーを取り出し、改札機に当て───。
───る手を、掴んだのは彼だった。
目が覚めた。
わたしは何をしていたのだろう。そうだ、夢をみてた。変な夢だった、ありもしない電車に乗って、蝶がいて、それから…。
「寝顔、可愛かったのになあ。あーあ、起きちゃったか…。あー、あ」
彼は睡眠薬の入った小瓶をいやらしく撫でていた。残り十七錠、致死量。
「キミは悪いコだよね。はい罰ゲーム。口、開け」
嫌だ、
「あ? 開けよ」
嫌、だ…。
「開けっつってんだろうが!」
そこから、記憶がない。