コーチングに逃げる自分1

このようなツイートをした。これは自分のどんな思いから出たのか改めて考えてみたい。

コーチングとの出会い

 僕は教師としての武器が何もなかった。実はちょっと昔にこのアカウントとは別にTwitterをやっていたが、何も発信することがないばかりか、ただただタイムラインから流れてくる先生方の実践に圧倒されるばかりであった。

「何かしなければ…何か」

そんな焦りをずっと感じていたと思う。SNSで触れる実践はほんの一部であることにしか過ぎないこともわかっていたため、その焦りを加速させた。

 だからといって、何か武器を作ろうと努力していたわけでもない。いつまでも学生気分が抜けず、責任感のせの字もなく、ただ何となくノリで自分が楽しくなるよう子どもと関わっていただけの初年度だった。今思い返すと、恥ずかしい。

 焦りを感じながらも何もしないで過ごしていたある日、たまたまコーチングを学んでいる方と居酒屋で知り合った。無料説明会をやっているということだったので、いつものようにノリで参加することにした。それがコーチングを本格的に学び始めるきっかけとなった。

痛感するコミュニケーションの下手さ

 説明会での内容はあまり覚えていない。覚えているのは、恥ずかしい悔しい、そんな感情だ。というのは、ペアでの傾聴ワーク(?)を実施し、話者が「話を心地よくできた」「話をあまり心地よくできなかった」「むしろ不快になった」のうちどれを感じたか共有する時間があったのだが、参加者の中で雄一僕だけが「話をあまり心地よくできなかった」という結果に終わったからだ。もちろん僕が傾聴する側での話だ。他の方々は「話を心地よくできた」という結果だった。

 正直にいうと、人の話を聞くことは得意な方だと思っていた。だからこそ惨めで恥ずかしく、悔しかったのだ。そんな感情の中、説明者が一言。

「コミュニケーションを体系的に学んだことはありますか?」

もしかしたら順番は違ったかもしれない。そもそもワークのシェアの内容も違ったかもしれない。ただ、僕のとってはあのときの感情とその一言が強く刺さり、これは教育にも活きるだろうと思い、コーチングを学ぶようになったのである。

学べば学ぶほど楽しいコーチング

 コーチングを学ぶのは楽しかった。明らかにコミュニケーションが上手くなっていくのを感じていたからだ。子どもとはいうまでもなく、職場の先生方やプライベートでの友人知人など、人と関わるのが楽しくなった。でも、そこで極めるほどにハマらないのが自分だ。何となくノリで始めたものは何となく満足感を得て、終わる。漠然と「コーチングが上手くなりたい」と思い、色々なセミナーや講座に参加するも、参加してよかったと思って楽しくなって終わり。思い返してみると、今を楽しむだけで終わっていたのだろう。もちろん学びはあるものの、楽しいという体験をしただけだ。だからこそ余計にハマる。

 どうやら、ここで力尽きていたようだ。また、続きは思い出したら書こう。
なぜ、コーチングに逃げていると感じたのか。それではまた明日。

2021.1.3.8:05.新幹線の中にて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?