一生分の幸せはすでに手に入れているのかもしれない#113

時刻は夜の10時44分。

今日は職場でとても苦しくなることがあった。それは自分以外の誰にとってもほんの些細なことである。しかし、自分にとってはものすごく辛く、苦しく、喪失感のあるものだった。

できれば聞きたくはなかった。その人以外の口からは。

もうかれこれずっと考えていることだ。きっともうあの人とは関わることはない。そう思い込んでいるらしい。奇跡のようあの時間はもう2度と繰り返されない。まさに奇跡だったのだ。かけがえのない、貴重で、尊くて、美しくて、愛に溢れた時間だった。あの時間を表す言葉を全くといっていいほど知らない。知らなくてもいい。

その人と関わることでたくさんのものを手に入れることができた。気がつくことができた。今もなお教え続けてくれている。自分の中でその人は生き続けている。こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。

あの人の存在を感じるだけで力が溢れてくる。と同時に、あの人とできなかったことを思うと、自分に対する無念や後悔の気持ちも溢れてくる。

幸せとは非常に複雑なものらしい。満ち足りていることに気がつくことであり、空っぽであることに気がつくことでもある。そこには何もかもあり、何もかもない。それくらい自分を勇気づけるものであり、自分を飲み込むものである。

離れることが必要なのかもしれない。それも自分の意志で。

もうすでに結構頑張ってはいるのだが、より辛い決断をする必要があるのかもしれない。

他人からすれば、本当に些細なことなのだ。些細でちっぽけで愚かなことで悩んでいる。でもそれがリアルだ。そのリアルを生み出しているのは誰でもない自分なのだ。

もし、その決断を後押ししてくれるものがあるとするならば、きっとその人への愛だろう。愛とは何かが未だわかっていないが、きっとこれは愛に違いない。その人と育んできた愛か。いや、この場合は、自分の中のその人、つまりは自分との愛であり、約束なのかもしれない。

自分が愛せるのは自分だけなのだろうか。自分との関係性にある愛。間にある愛。間は愛だ。

こうして感じてみると、やっぱりその人との時間は一生分の幸せと言っても過言ではないくらいのものだった。

本当にありがとう。何度伝えても伝えきれない。

2022.3.2.wed 23:01

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