何を見るのか

 SNSを何となくみていると、「あぁこんなふうに人生を送ってみたかったな〜」と思っている自分がいることにふと気がついた。大体年下の方だ。僕はもうアラサーもアラサーなので、自分の人生と比較してそう思っているのだろう。これまでの僕の人生とは比べ物にならないくらい“よさ“そうだなと。何がよいのかはわからないが、感覚として。ところで話は飛んでしまうが、アラサーといざ言葉にしてみると、なかなか来るものがある。自分の年齢がどうみられるかは、もう少し自覚しておいた方がいいような気がしてきた。

 話を戻そう。よさそうだと思うのは、どこかこれまでの自分の人生を否定したくなる自分がいるのだろうか。否定することによって、これからは違う人生を生きるんだという意志の確認をしているようにも思う。もうひとつ先へ進みたい。否定による前身も必要な時はもちろんある。が、今の自分にとっては不要だ。むしろ、それは阻害するものですらあるかもしれない。なぜなら、これまで生きてきた自分も自分だからだ。そして、その自分にはこれから生きていくために必要な何もかもが詰まっているように思う。否定するのは、それすらも手放し、ゼロからスタートすることを意味する。そうやって自分に発破をかける人もいるだろうが、僕の場合はそうではない。むしろ、それは今まで繰り返してきて散々失敗してきたものだ。また、僕は繰り返そうとしているのか。

 だからこそ、何をしたいのか。痛みは伴うが、これまでの自分を許すしかない。そういえば、こんなことを言っていた。

確か「ザ・メンタルモデル」を読んでの感想だったと思う。自分はここでいう「価値なしモデル」でその人は「存在そのものに価値があると思えるかどうか」みたいなことが書かれてあった気がする。つい最近読んだのに、もう忘れ始めている。この忘れるという行為さえも受け入れていきたいところだが。うむ、このままいくとだらだらと書いてしまいそうなので、ここらで結論を出しておこう。あまりに長いと、未来の自分が読まなくなってしまう。この辺りの言葉から、感じておくれ。

「可能性を広げる」よりも「元に戻す」

 ICFのコーチングの定義には「自身の可能性を公私において最大化させるように〜」とある。「可能性を広げる」というのはよく聞く言葉だ。別にそれを否定したいわけではない。むしろ、僕もいつか言ってみたいとも思う。

 でも、今の自分に対して「可能性が広がった」とは思わない。もちろん、明らかにここ数ヶ月で自己変容は起こっているし、それまでの人生を基準に考えると、可能性が広がっているのは間違いがない。でも、やっぱりそうは思わないのだ。今感じるのは、ようやく元に戻ってきたな、という感じだ。僕本来の力を発揮できるようになってきているような気がしている。あまりにも自分を制限するものが多かった。自分の環境、自分の状況、自分の思考。制限が悪いのではなく、制限が多かったことがよろしくない。

 さて、やっと結論です。これからは、自分を取り戻していきましょう。もしかしたら「自分軸」という言葉に引っかかっているのはこの辺りに何かがあるのではと思ったけれど、とりあえず今はそれがあることだけ感じておこう。

 「感じてから、考える」

僕が最近実践している考え方だ。今日は長くなった。でも、やっぱり自分にありがとう。

2021.1.21.8:31

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