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その表現は誰のもの?#79

「まだ裸になっていないですよね?」

とあるワークショップの参加者たちとオンラインで忘年会なるものを開き、開始してから5分もたたずにあるひとりが発した。

このワークショップでは、参加者それぞれの人生で考えたいものを扱う。自己開示に必要な安心安全の場であることはもちろん、まだ気づいていない自分のユニークさを掘り起こしたり創り出したするような場となっている。したがって、自分を含めそれぞれの参加者が多くのことを包み隠さず話してきた。

誰にも話せないけどこの場だからこそ話せるものがあった。それはそれは多くの美しいもの(それぞれのユニークネス)を見届けてきた。

と思っていた。ただ、冒頭の指摘だ。

他の参加者たちも「???」となっていたように思う。

自分はそれを受けて少しギクりとした。

裸になっていないわけではない。こんなにも自分のコアな部分を出したことは今までにないくらいだからだ。ただ、確かにまだどこか見せてはいない自分の存在も感じていたのは事実だ。見てみぬふりをしていたのかもしれない。

もちろん、全てを見せなければならないわけではない。人と生きる上で適切な距離感が大切な時もある。しかし、この人たちには全部見せたい、裸でありたい、そう思う自分が確かにいたのだ。

思えば、自分はありのままの自分全て見せていますよ〜というフリがうまいように思う。でも、肝心な部分は見せない。本当は見せたいと思っているのに。

見せないのはきっと恐れているからだ。受け入れられないのではないかという恐れ。

だからか、受け入れてもらえるような表現に直す。誤魔化す。それは相手と関わる上で必要なことなのかもしれない。でも、それは自分の言葉ではない、他者の言葉だ

他者の言葉という服を着ていたのだ。

そりゃあ「裸になってないよね?」と指摘されてもおかしくはない。

発言した人が何を思って感じていたかはわからないが、少なくとも自分はこのように受け取った。

裸になるのが怖いなら、まずは自分の言葉という服を着よう。

同時に、恐れから自分を表現しないのではなく、恐れとともに自分を表現しにいこう。

それが人とともに生きたいと本気で願う自分への責任だ。

その場だけが居心地のいい、誰かのための物語の登場人物の役割を演じるのはもうやめにしたいと思う。

2021.12.23.10:24バス内で。

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