自分を知ることが、こんなに痛いとは

 僕は自己分析というのを本当の意味でやったことがない。本当の意味というのは、自分のことについて、考えて考えて考え抜いて、色々な人に聞いてみて、という感じだ。つまり、サラッとしかやったことがないのである。別にそれでいいのだが、一方で、自分のことが知りたいという欲求は人一倍強いと思う。

 なぜ、自分はできないのだろうか。なぜ、自分は自分のことを認めてあげられないのだろうか。自分の願いは何だろうか。自分の夢は何だろうか。自分は本当に何がしたいのだろうか。こういう大きな問いが常に頭の中に浮かんでは消えを繰り返してきた人生だった気がする。そして、いつの間にか考えることが苦痛になってきたために、自分のことを知ろうとするのを避けてきたのだ。

 学生の頃はそれでも周りの流れに従っていれば生きていけたし、自分がなくても自分を知らなくても勝手に周りが自分を形作ってくれた。だけど、いつまでも避けているばかりではうまくいかなくなる。まさに今だ。

 なりたいと思っていた教員にもなれ、学びたいものも学ぶことができ、学生の頃では手に入らなかったものも手に入れられるようになった。恵まれていると思うし、思わなきゃいけない。でも、どこか虚しい。

 この虚しさはどこから来るのだろうか。考えても見つからない。ただ、今はこれまで避けてきた自分を知るというプロセスの中にそれがある気がしてならないのだ。

 今の自分は、今と過去しか楽しめていない。今と言っても未来を見据えての今ではない。少しオーバーな表現をすれば未来に対する希望はない。そんな自分が未来を見据えた今を楽しみたいと願い始めている気がしている。いわゆる「将来何になりたいの?」だ。それに答えたくなっているのだ。だから、これまで避けてきたプロセスを辿ろうとしている。

 ここまで、長く時間がかかったが、ようやくその問いに応えたくなったのだから答えよう。そして、答えるためにも自分を知ることが必要だろう。そう思って、自分を知るために色々と取り組んでいるのだが、これが痛い。見て見ぬ振りしてきた自分がいるからとんでもなく痛い。そして、怖い。

 やっぱり最後にいいたい。自分に。間違いなく変化しようとしているから、ここで折れないで。大丈夫、周りには助けてくれる人、支えになってくれる人、自分の道を照らしてくれる人、そんな人たちがたくさんいる。「あるものに感謝を」忘れないで。

2021.1.17.20:00

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?