最終回後3日目にして、恋患いにおちいった。

第6話終了から最終回までの一週間、どうも体に異変が続いていると気づいたのは週の半ばだった。
眠る直前のように手のひらが異常に熱いのだが、別に全く眠くはない。両手を広げて放熱しないと熱くて熱くてたまらない。動悸がひどく、食欲もない。
これが、「おっさんずラブ」のラストが気になるあまりに体に異変が起きているのか、単に年齢からくる不調なのかが判然としなかったため、ひとまず放置した。
そして放送が終わって3日。
日曜日は、幸せなラストに満足し、機嫌よく過ごしていた。今思えばあれは、いっとき麻薬にひたらされたようなものだったのだ。月曜日、日が落ちるころから、揺り戻しは急にやってきた。異変がよみがえり、急速に進んでいる。
食欲がないし、胸が苦しいし、手のひらの温度は37度5分を保っている。
けれど、それだけだ。その他の症状はなく、どちらかというと体調は良い。
淡々と家事をこなし、子どもを寝かせたあとは、夜の深い時間まで「#おっさんずラブ」「#はるたん」などで検索をかけ続け、その合間に最終話の配信を見続けることもできる。

この、体の状態には覚えがある。
結婚して10年になる夫と、まだ付き合う前に陥った「恋患い」というやつだ。毎日缶コーヒーくらいしか欲しくなくなり、みるみる痩せた。「本当に恋という“やまい”を患うものなんだなぁ」と感心した覚えがある、まさにその時と同じ状態なのだ。

今、ドラマが終わって恋を患っているのか?
いや、そもそも患っているのは恋なのか?
わからない。
ただ少なくとも私の中には今、確かになにかがわだかまっている。

ごった煮のような心の中を覗いてひとつひとつ書き出してあげてみると、自分の中では次の3つがぐるぐるとまわっているようであった。

①黒澤部長のしたたかな乙女っぷりのこと
②春田の、思えばちょっと異常なとこ
③あらためて思う、牧の過ごした1年という時間の長さ

①と②については感想なので、別で書くことにする。
おそらく今私を襲っているのは③である。牧が、あの狭いオフィスで春田を見ながら過ごした1年間分の痛みが、最終回を見返すたびにじわじわと効いてきているのである。
ここから先は「コメディドラマの一部分についてそこまで妄想するなんてキモー」という自分の内側にかすかにあがる声を完全にひねり殺して進む。ぷち。

さて、春田が傷ついている間は、牧もまたその痛みの当事者だった。2人で過ごした期間が楽しかったから春田は荒れているわけで、その様子を眺めるとき、深く心を痛めながらも、どこか嬉しくもあったんじゃないかと思う。自分の言葉のせいで、思う相手がどうにかなっている。申し訳ない、自分のことなんて早く忘れて欲しいと思いながら、本当に辛くなったのは、いざ忘れられた後からだったのではないだろうか。
ついに完全に自分の言葉を真に受けて、春田は気持ちを切り替えたのだ。軽いノリで仕事の話をして、能天気にも単なる同僚に戻ったと思い込んでいる春田は、さらになんと、あろうことか、部長と一緒に生活し始めたというではないか。

荒れる。
ここまで想像してもう泣きそうだ。

自分が毎日料理をしていたキッチンに部長が立っている。
自分だけが見ていた、クソださい部屋着の春田の姿を、部長が見ている。
無防備な寝起きの顔も、風呂上がりの(謎のイイ)体も、休日の私服も、部長が、見ているのだ。
今、まさにこの瞬間に!

ぎゃーーーーー。

かわいそうな牧……。

きっと何度か、酔った勢いで家の前まで行ったこともあるんじゃないかと想像する。
壁一枚隔てて春田がテレビを見ながら笑っている気配がする。
そこであかりのついた窓が薄く開き、中から部長の小言がこぼれてくる。
(「ほらまた靴下散らかして、はるたん、もうかたっぽも脱いで脱いで、脱いだらお風呂に入れよな」「あ、はい部長」)
一気に酔いがさめて、自嘲の笑みを浮かべながら足早に立ち去った夜も、一回くらいはあったんじゃないか、なーーーー。
切ない!!!

わからんけど!!

最終回で春田がまいまいに「別に俺は、部長とおつきあいをしているわけでは、ないので」と返した時に、牧は隣で目を見開いていたから、それまでは「つきあっていると思っていた」のだ。

1年間も。

予告編を見た時点ではそれほど描かれていなかったから気にしていなかったし、最終回を見終わったあとは「よかったよかった。はるたんのところに戻ってきたんだね」と祝福モードいっぱいで麻痺していたけれど、見返すたび、目に入るのだ。そこには牧が我慢していた時間が、しっかり存在していた。春田と世間話をした後に、こっそり(主任・政宗はお見通しであろうが)痛みをこらえる微笑みは、牧にとってはもはや日常の一部になっていただろう。

たぶん「わんだほう」にも行けないで。
自分を気遣う元カレにも言えないで。

我慢して我慢して、やっと久々に会えたちずに促されて言えた一言が、橋の上での「つれえーー……」だった。この一言を、牧にきちんと言わせてあげたちずは本当にいい子だよ。

1年という時間の長さが、見返すたびに重く効いてくる。
呪いのように、見ているこっちにダメージが重なっていく。

――これかな。患いのもとは。
今わたしは、1年分の重い重い、牧の春田への片思いを、無意識に追体験しているのかもしれない。それは確かに、食欲くらいなくなりそうだ。

でもせっかくの機会なので、これを利用して痩せようと、半額の広告が出ていたDHCプロテインダイエットをツイッターから購入しました。

・・・・・・

それにしても、役者ってどうなってんの?
私が「1年分の痛み」を想像するきっかけになった「痛みをこらえる微笑み」「一年越しの『つれえー』」「荒れた春田を気遣う目線」「外回りをもう少し一緒にしたい健気さ」は、演技の時間としてはそれほど長くないわけで。
いかに「その間は役本人として生きていた」にしたって、それで単なるいち視聴者の体調までも悪くすることができるなんて。
そもそもこの物語はシリアスで重厚なドラマではない。
きちんとした恋愛ドラマだけど、あくまでコメディなのに。

なにが言いたいかというと「もしかして役者っていうのは、その気になれば演技で人を殺すこともできるんじゃないのか?」ということです。
できるのかもしれないなぁ。
とても古い時代の、神様へささげる祭りにも、そういう力があったのかもしれないと思う。
演じるってことは、魔法に少し近いのかもな。

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