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ライザのアトリエ3から学ぶ退屈の哲学

最初に言っておきますが、ちょろっとだけですがエグイネタバレするのでそこだけご理解お願いします。

さて皆さまゲームは好きでしょうか?
私は結構好きで、その中でもライザのアトリエシリーズはここ最近の中でも一番プレイしているかもしれません。
そしてライザのアトリエ3が発売し、最終章ということで様々な謎や伏線などが回収されたわけなんですが、哲学的な要素の一つとして、「神代の民」と「万象の大典」を今回取り上げたいと思います。

ライザのアトリエを知らない方のために少しだけ説明すると、

・「神代の民」は遠い昔にとんでもない技術力をもった人たち。
・「万象の大典」は「神代の民」がとんでもない技術力で作り上げた理想郷、天国ともいえる場所

みたいなイメージで大丈夫です。

ストーリーに関して知らない人&ざっくり知りたい人向けに説明(厳密ではありません)

ライザ達が生まれるはるか昔、なんやかんやで「神代の民」は多くの犠牲を払いながら、命の危険もない、何でもできる、まさに理想郷ともいえる場所である「万象の大典」を作り上げました。

ここまで聞くと、もし自分がこんな状況になったら幸せだな、と感じますか?
多分想像だけなら幸せだと感じるはずですが

結果的に約100年程度で神代の民が作った万象の大典から(一家族を除き)、人々は全員いなくなりました。

え、どうしてこんな素晴らしい場所から人々がいなくなったのだろう?
と感じますよね。
原因は何でしょうか?
万象の大典内での人々の醜い争い?子孫を残せなくなった?

違います。
「退屈で人は万象の大典を去っていったのです」

これだけ聞くとよくわからないと思うかもしれません。
ですが無意識にはこの意味がよく分かっているんじゃないかなと思います。
詳しく説明していきましょう。

この退屈、というワードで最も参考になる人物の一人がパスカルになります。

パスカルは退屈は人を不安にさせるといいます。
なんとなく感覚的にわかるんじゃないかなと思うんです。
例えばスマホがないとそわそわしたり、最低でも本を読むなどのやることがないと落ち着かないなんて人多いと思います。
つまり私たちは退屈を消費できる気晴らしが欲しいわけです。

パスカルが例にしているものだと「うさぎ狩り」があります。
若干時代を感じる例ですが、例えば私がうさぎ狩りでうさぎを狩りに行くんだ、といった場合、私含めほとんどの人がうさぎが欲しいから狩りに行くと感じるかもしれません。

ですがどうでしょう。
もし狩りにいく前、私の目の前にすでに狩ってあるうさぎが届けられ、これでうさぎ狩りをする必要がないね、なんて言われたらたぶん不機嫌な顔になると思います。
確かに私の目的は達成されてわざわざ面倒くさい狩りに行く必要はありません。
ですが私は不機嫌になりました。
何故でしょうか?

理由としては簡単です。
私はうさぎ狩りを気晴らしとしてしたかっただけで、実際のところはうさぎ狩りはその気晴らしの手段であっただけだからです。
つまり欲望の対象と、欲望の原因がごちゃごちゃになっているわけです。

欲望の対象:うさぎ
欲望の原因:気晴らしが欲しい

だから別にうさぎじゃなくても鹿でも良ければ豚でもよいし、そもそも狩りである必要はありません。
さらにここから言えることとして、私たちは気晴らしをする際ある程度負の要素が必要になります。

というのもうさぎ狩りは結構面倒くさいもので、重い荷物を持ち歩かなければいけないし、そもそもうさぎを見つけるまで山をめちゃくちゃ歩かなければいけない。
仮に仕留めても満足いくうさぎを狩れない可能性だってある。
でもそれによって退屈から逃れられるように熱中できるし、気晴らしができるから、少なくとも退屈よりかは楽しいわけです。

まだピンときてない人はドラクエやFFなどのゲームをプレイしたときを考えてみてください。
例えば今からドラクエやるぞ、となったとき私たちは魔王を倒すことが目的となります。(人によっては勇者の強さの限界を目指す、とか、お金を限界まで貯める、など様々な遊び方はありますけどね)
しかしやろうとしたときには勇者一行のステータスが限界まで上がっていたら私たちはドラクエをプレイしようとは思いません。
何故なら、ドラクエで目的、ここでいう魔王を倒すという達成するまでの過程と苦労を楽しみたいからプレイしているわけで、最初から勇者が魔王を倒せるくらいのステータスを持つドラクエをプレイしたところで何も楽しくありません。
何故なら気晴らしにならないから。

ここから神代の民も同じようなことを思ったのでしょう。
何でもできる、命の危険もない、どんな病気も治療できる。
まさに理想郷のような世界ですが、この世界に困難は一切ありません。
困難がないというものはつまらないわけです。
だって私たちの生きる目標や目的がないのだから。
だから神代の民達は

退屈でつまらない。
気晴らしが欲しい。
苦難を乗り越えたい

この状況を脱して、人間らしい生き方をしたい
だから万象の大典を去っていった。
人間を捨てないために



余談
退屈を避けたいという気持ちは誰しもが持っていますが、私自身悪いものとは思っていません。
人は何かをよくするため、困難を乗り越えるためにも退屈を避ける能力は必要だと考えています。
ただ、だからこそ私たちが望むような理想郷は作られないし、仮につくられても簡単に崩壊する。

つまり私たちに理想郷は存在しないのです。

ですが存在しないからこそ人間なのかもしれません。

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