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アニメ"カイバ"を観て体と記憶、魂の関係を考えてみた


カイバというアニメを観た。

2008年にWOWOWで放送されたアニメで、監督は「夜明け告げるルーのうた」や「夜は短し歩けよ乙女」の湯浅政明。

学生時代に、湯浅政明監督の「マインド・ゲーム」というアニメ映画を観て、表現が自由すぎる!しかも深い!面白い!と衝撃を受けた。カイバというアニメが存在することを知って嬉しかった。

カイバを知ったきっかけはillustrationという雑誌を読んで、一乗ひかるさんというイラストレーターの方がカイバについて語っていたからだ。ちなみにカイバ第5話に一乗ひかるさんの作風に似てるカットが出てくる。


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一乗さんの話の中で、湯浅監督は「劇場版クレヨンしんちゃん」も手掛けていると知り、調べたら「ヘンダーランドの大冒険」の絵コンテも担当していた。

これには本当に驚いた。

自分の場合、湯浅監督作品は「マインド・ゲーム」から入って、有名どこの「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーのうた」をさらって、今回この「カイバ」に出会ったわけだが、既に5歳くらいの時から湯浅監督に影響を受けていたことになる。


「クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険」は小さい頃から好きだったクレヨンしんちゃんシリーズの中でも一番好きな映画で、風邪をひいて学校を休んだ時によく観ていた。なんならこの前も新幹線の中で観た。遊園地が舞台の映画だ。

遊園地はエモい。入ってから出るまでは夢中になってはしゃぎまわるのだが帰り際、夢から醒める時に怖くなる。誰もいない夕暮れ時の園内や、着ぐるみの中身、舞台裏で動かないキャラクター達を想像してしまうのだ。子供より子供らしくはしゃぐ親の姿も取り残されている感じがして苦手だった。

遊園地におけるファンタジーのダークサイドをユーモアたっぷりに描いた映画が「ヘンダーランドの大冒険」だ。敵のキャラが立ってて好きだったし、ポップかつダークな世界観はアトラクションのようだった。

幼心に「トッペマよりチョキリーヌの方が好きだなー」と思っていた記憶がある。しんのすけ顔負けのスケベな5歳児だったんだな。


カイバの考察と感想を書こうと思ったのに、気付いたら昔の思い出に浸って1000文字くらい書いてしまった。こんな風に過去を懐かしく想い、ふとした偶然に驚くことができるのも、脳の記憶の保管庫、海馬のせいだ。

そう、「カイバ」とはそんな人間の"記憶"がテーマのアニメである。


あらすじ

記憶のデータ化ができるようになり、肉体の死がもはや死と呼べなくなった世界。記憶はデータバンクに保存され、新しい身体への「乗り換え」や、記憶の売買といったことが可能になり、違法に記憶を改ざん、記憶を盗むことも行われていた。社会は混沌とし、力を失い停滞化していた。そんな世界を主人公カイバは記憶を失ったまま宇宙の星々をめぐり、たくさんの人々と出会い、記憶を取り戻してゆく。 -Wikipediaより-

"記憶"と"肉体"を選択する自由が生まれた世界。それがカイバの舞台だ。

記憶は円錐形のデータチップに保存され、頭部に差し込むことでその人の記憶として働く。肉体の生成技術も高度に発達しており、クローンを作成することはもちろん、美しい理想の肉体からアニメのキャラクターのような肉体まで手に入る。

ただし、記憶も肉体もかなり高価なものとされており、記憶と肉体を自由に扱えるのは電解雲と呼ばれる雲の上の富裕層のみ。下界の貧困層は病に倒れた親に新しい肉体を与えるために子が働いたり、子供の記憶データを保存するために親が働いていたりする。

しかし皮肉にもこの世界で価値を持つのは、最も甘美な記憶でも最も美しい肉体でもなく、酸いも甘いも含めたその人固有の記憶と、どこかコンプレックスがありつつもなんとなく気に入っているその人固有の肉体なのだ。

というか、そういう風にカイバの各話は作られている。特に3−5話。


ボディ

大金を払って理想の肉体を手に入れた結果、多くの人に愛されるようになったら嬉しいだろうか。

否、自分の本質が愛されている訳ではなく、その肉体が愛されているのだと痛感し逃げ場のない虚無感に襲われるだろう。

と、今この世界に住む自分の価値観ではそう思う。美容整形程度のわずかな変化では大半の自分は残っているからグレーだが、カイバの世界では肉体が丸ごと変わる。

ネトゲでアバターが選択できるようなものだ。もしかしたらその世界に住む人の価値観ではアバターを変えて愛されても虚無感は感じないかもしれない。アバターを選んだだけなんだから。

むしろ多くの人に好かれる好かれないという価値基準はなくなって、自分が何をしたいか、どう在りたいか、どんな人と仲良くなりたいかという基準で肉体を選ぶようになるかもしれない。


マインド

同じようなことが記憶にも言える。記憶とはつまりその人の人格の一部でもあるから、記憶を書き換えれば理想の人格が手に入る。

すっごい根暗な人が、根明になって周りの人に愛し愛されるエピソードだらけの記憶に書き換えた結果、そんな感じの日々が続いたら嬉しいだろうか。

やっぱり虚しさはつきまとうだろうなと、今この世界に住む自分の価値観では思う。

てか記憶書き換えてたら、当たり前の日々が当たり前に続いてるだけで嬉しくもなんともないか。


また、記憶と人格について語る時、記憶と人格はどこまで同じか問題が発生する。

人格は記憶の総和の指向性のことなのか、はたまた記憶とは別のところに存在するものなのか。この辺りには答えはないと思う。

物事を認識して感情を感じるプロセスが、これまでの記憶に従って行われるのか、人格という捉えどころのないものによって行われているのかの違いだ。

カイバでは記憶と人格は別物に描写されていて、自分もそうだと思うしそうあって欲しいと思う。


ソウル

と、ここまで記憶と人格に関することを書き終えてこのnoteを一度下書きに保存し、"Re:ゼロから始める異世界生活 シーズン2"を見始めた。

なんとそこで、"暴食"の大罪司教がクルシュの"記憶"を食べてしまい、以前の記憶を忘れしおらしくなったように見えたクルシュだったが、全く以前と同じ様に自らの"正義"と"責任"を持ち、強い意志で語る姿があった。

リゼロでも記憶と人格は別物として描かれているのか!と思い、実際に同じ様な事例がないかGoogle先生に聞いてみたところ、そのような人物が実在した。

記事に登場する音楽家でありイラストレーターでもあるジョンソン氏は、ウイルス性脳炎に冒されて海馬に損傷を受け、以前の記憶の喪失し新しい記憶を覚えることができなくなってしまった。

思わぬアクシデントで図らずも"永遠の今"を生きるハメになってしまった彼女だが、人格は病気の前後で変わることはなく芸術家としての能力も保たれていた。記憶はただの保存データであり、その人の人格プログラムには関与しないのか!と思われた。

さらに不思議な話は続く。

ジョンソン氏は以前付き合っていた男性に首を絞められたことがトラウマでしゃがれた声になってしまったのだが、記憶を失ったことで事件以前の豊かな声量ではっきり話すようになったのだという。

ひとを構成する要素としてボディ、マインド、ソウルがある。電子機器におけるハード、データ、ソフトのようなものだ。

ジョンソン氏の話からわかることは、三要素は密接に絡み合って機能しているが、データを失ったところでソフトの本質的な部分は変化しないということだろう。


まとめ

この記事を書くまでは記憶と心はどこまで関与しあっているかはっきりしなかったが、その一面は垣間見ることができた。

三つ子の魂百までということわざがあるように、自分が湯浅政明監督の映画に影響を受け続けているのは、記憶のせいとも言えるし、魂が感応したせいとも言える。

カイバの物語の感想を書こうと思ったら脱線しすぎたのでここまでにしておきます。







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