『球陽』の天文記事 ~異星~

『球陽』には異星の記録が6件あり、いずれも彗星で説明がつく。

尚穆王八年の怪星と異星

夏四月五日異星見はる。
此の夜、異星ありて巳午位に見はる。
即ち下庫理当官、明王に転達す。
其の星図は下庫理日記に見ゆ。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

ハレー彗星の記録と考えられる。「『球陽』の天文記事 ~怪星・奇星~」を参照されたい。

尚灝王八年の異星

本年八月、異星、戌亥方に見はる。
隨即御番頭、下庫理当に転逓し、進奏せしむ。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

尚灝王八年の八月は1811IX18~X16である。
この頃、1811年の大彗星(C/1811 F1)が日没後の戌亥の空に雄大な姿で見えている。この彗星は1811III25にH. Flaugerguesによって発見され、IX~XにはWilliam Herschelによって詳細に観測されている。それによるとIX18には視直径5~6分の球状星雲のような頭部で11~12度の尾を持っていた。また、X12には尾の長さが17度、X15には「非常に澄んだ大気の中で、尾は長さ23.5度の空間を覆っているのがわかった」とコメントしている。

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1811IX18~X16の宵の北西天

この年に生産されたワインは「コメットワイン」として高値で取引されたといわれており、たかもちげん氏のコミック「代打屋トーゴー」にも登場する。

尚泰王六年の異星

本年、異星、酉戌方に見はる。 此の年七月十九日より二十五日に至るまで、毎夜戌亥の二時、異星酉戌方に見はる。 其の形仮辮に似て、長さ三尺許りなり。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

尚泰王六年七月十九日は1853VIII23、二十五日はVIII29である。
この頃、宵の西天には、1953IX2に近日点通過を控えたKlinkerfues彗星( C/1853 L1)が肉眼で見える明るさとなっている。

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1853VIII23~29の20時JSTの西天
尾の長さ0.7AUの出典は不明(失念した)
また、図中の小数は彗星の明るさを表すが、不正確である

1853VI10~11の夜、Ernst Friedrich Wilhelm Klinkerfuesによって発見されたこの彗星は、VIII19までには長さが数度の尾を持って2~3等となり、月末には明るさ0等で尾の長さは12.5度に達したといわれている。
「古天文学」(斉藤国治 1989)では、貞和5年の水星、金星、木星の会合の記事により一尺を1.3度と算出している。これを用いると尾の長さは約4度となり「VIII19までには長さが数度の尾」と齟齬はない。

尚泰王十一年の異星

本年八月二十日より九月初一日に至るまで、毎夜酉刻より戌刻に至るまで、異星見出す
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

尚泰王十一年八月二十日は1858IX26、九月初一日はX7である。
この頃、宵の北西の空に1858IX30に近日点通過を控えたDonati彗星(C/1858 L1)が肉眼で見える明るさとなっている。
wikipedia等には「写真に撮影された初の彗星」と記載されており、いくつかの絵画も残されているようだが、詳細を知ることはできなかった。

尚泰王十四年の異星

本年、異星亥方に見はる。此の年五月二十四日より三十日に至るまで、毎夜戌亥の二時、異星亥方に見はる。而して二十七日より其の長さ始めて短し。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

尚泰王十四年五月二十四日は1861VII1、三十日はVII7である。
「其の長さ始めて短し」と長さの変化が述べられていることから、彗星の記録であると考えられる。この時期、Tebbutt彗星(C/1861 J1)が明るい。

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1861VII1~7の宵の西天
図中の尾の長さはイメージであり、根拠はない
また、図中の小数は彗星の明るさを表すが、不正確である

Great Comets in History」によると、この彗星は1861V13頃からおよそ90日間肉眼で見える明るさとなり、1861VI27に0等級と最も明るくなった。近日点通過は1861VI30、地球への最接近は1861VI27であった。地球接近時に90度以上の長さの尾が報告されている。
最も明るかった時期に記録されていないのは、暗くなる前に沈んでしまうこと、5月から6月にかけては梅雨の時期にあたることが影響していると考えられる。
『球陽』にはこの記事の直後に「本年,照例命官恭還去年禱雨之願。」という記述がある。
雨ごいの願を返すということを、この頃それなりの雨が降ったと解釈すると、肉眼で見える明るさが90日間に及んだ彗星が7日間しか記録されていないのは、天気の影響による可能性もある。

尚泰王十五年の異星

本年、異星亥子方に見はる。此の年七月二十四日より以て八月十一日に至るまで、毎夜酉刻の時より以て亥刻に至るまで、異星亥子方に見はる。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

尚泰王十五年七月二十四日は1862VIII19、八月十一日はIX4である。
この時期、宵の空にSwift-Tuttle彗星(109P/1862 O1)が肉眼で見えている。この彗星は毎年8月中旬に、夜空を賑わすペルセウス座流星群の母彗星である。1862VII16にルイス・スウィフトが、1862VII19にホレース・タットルが、互いに独立に発見した。(Wikipedia スイフト・タットル彗星)
この時は流星群の極大日の約二週間後に地球に最接近している。

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1862VIII19~IX3 20時のSwift-Tuttle彗星の位置
図中の小数は明るさを表すが、不正確である

この年の流星群の活動状況は、群馬県宮城村の『宮城村史』の「赤城神社年代記」に、

文久二年七月十五日夜、東北ヨリ西南ヘ流星ノ如キモノ空中ヲ飛コト数千。大キナルハ三、二寸ノ光モノナリ。一夜ニシテ止、世上皆見ル。同月ヨリ麻疹ハヤリ人大ニ煩フ死者モ多シ。

と記録されている事を、FSPACEの蕎麦男氏に教えていただいた。満月であるにもかかわらず数千個の流星が見えたとは、かなりの大出現であった事がうかがえる。

「球陽」においては、この「異星」記事の直前に

此の年、旱魃災いを為し、雨沢降らず。七月十九日より以って二十一日に至るまで、例に照して雨を祷り、経に下雨すると雖も、未だ田を潤すに足らず。八月初三日より以って初五日に至るまで、再び例に照して雨を祷る。

と、この時期雨が少なかった事が記録されている。特に「赤城神社年代記」に記録されている七月十五日は、雨乞いの祷を行う四日前であり、太平洋高気圧におおわれて良く晴れていたのではないかと想像されるが、「球陽」にはこの流星雨の記録はない。なお、「球陽」にはこの「異星」記事の直後に、火球ないしは隕石落下と思われる「異光」の記事があるが、グレゴリオ暦で8月23日の事であり、ペルセウス群によるものとするには時期が遅すぎる。

「赤城神社年代記」にも記述されているように、この年は日本国内ではコレラが流行している。「球陽」でも

本年、痳疹流行する有りて大米を賑賜す。

と、流行病の患者に米を配布した記録がある。日照りが続いたり、流星雨の直後に疫病が流行ったりし、そこへ肉眼彗星が現れたのであるから、さぞ人々の不安を煽ったのであろう。

この彗星は1981年に回帰が予報されていたが、検出されずにロストコメットになっていた。その後マースデン氏の研究により、1992年に回帰すると予報され、同年9月26日に木内鶴彦氏によって検出された。

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