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人文・社会科学の教養をめぐって

大きな階段教室で一般教養としての社会学の講義を担当していた作田氏から、新入生に向けてのメッセージ。「むやみに先をいそがないで、ゆっくり勉強してほしい。」
後年、実用的でない理論系の科目がだんだん削られていく状況をみて、「(学生にとって)本当のオアシスなのに」とつぶやいておられた姿が思い出されます。

1968(昭和43)年 4月10日『京大教養部報』第17号
人文・社会科学の教養をめぐる感想

戦後たくさんの新制大学ができた時、駅弁大学ということばがはやった。大宅壮一の造語だそうである。このことばには地方大学をばかにした含みがある。しかし大学が多いのは悪いことではない。イギリスやフランスでは少数のエリートをつくるために大学が存在する。日本やアメリカでは、大学は大衆に開放されている。イギリスやフランスにくらべると、日本やアメリカは平等主義の観念が発達しているから、それだけ大学も多くなる。多過ぎていけないという理由はない。
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 新制大学は一般教育課程を含み、どの専攻分野に進む学生にも、人文・社会・自然の三系列にわたる必要単位の取得が課せられている。ここにもまた、平等主義の観念が働いていると言えないだろうか。もちろん、多数の人びとの大学進学が望ましいという平等主義と、大学にはいったのち、専門化し分化した能力を身につけるほかに一般的な能力を習得するのが望ましいとみなす平等主義とは、精確には重ならない。しかし共通点もある。それは、できるだけ多くの人びとが高度の共通の能力をもつのが望ましいとみなす立場である。だから、大学が多過ぎると考えている「貴族主義」者が、おおむね一般教育課程無用論を唱える傾向があるとしても、不思議ではない。しかし私たちは(少なくとも私は)大学が少ないより多いほうがよいと思っているし、一般教育課程もないよりはあったほうがよいと考えている。むろん、現在のすべての大学が満足すべき状態にあるとは思わないように、一般教育課程の現状がこれでよいとも思っていない。現状は改善してゆかなければならない。しかし、戦後の学制改革は望ましい方向への前進だと思うし、また未来の社会の要求にこたえるのはこの方向しかないと思っている。
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 いつかの年、倫理・社会と政治・経済の入試問題の採点中、ある学部の若い助教授が「高校でこんなむつかしいことを習っているのやから、大学の教養課程は要りまへんなあ」と独り言を言った。あいづちをうつ人もいなかったし、反対する人もいなかった。採点中なので、私も黙っていた。この意見には一応もっともな点がある。だがもっともでない点もある。たしかに、高校ではかなりこまかなことまで学ぶ。だが高校の先生方は専門的な研究にうちこむ時間の余裕がない。それで、むつかしい知識を教えることができても、それらの知識が出てくる根拠にまでさかのぼって、これらの知識を体系づけることはむずかしい。私たちは能力の点ではともかく、時間の余裕の点では、高校の先生方よりも恵まれているので、同じ知識を教えるにしても、それらの根拠に立ち入ることができるように思う。
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 これは私のうぬぼれかもしれないが、しかしともかく、多少ともそのような自信をもっている。多くの先生方も多分私と同意見ではないかと思うが、自分の意見を押売りするわけにいかないから、私だけの考えであることにしておいてもかまわない。こういうわけだから、大学の一般教育課程で学ぶ人文・社会諸学の内容が、高校当時諸君が学習した内容といくらか重なることがあっても、その内容がどういう根拠にもとづいて講義されているかに関しては、違いがあると思う。その違いは一見するとわずかな違いに見えるが、じつは学問になるかならないかの違いであるから、かなり重要な違いなのである。それで私は、人文・社会諸学が大学の一般教育課程におかれており、この分野での考え方を諸君が学ばれることは、重要な意味があると考えている。
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 むかしの大学は専門課程が三年あったのに、今は二年あるいは二年半しかない。学問がだんだん高度になっているのに、期間が短くなっているから、一般教育課程を二年ないし一年半もおくのは不経済だ、という意見もある。この意見も一応はもっともである。たしかに二年あるいは二年半の専門課程は短かい。もう一年延長するか、あるいは一般教育課程とのインテグレーションをくふうしてむだの少ないカリキュラムを再編成するか、などの案が真剣に考えられてよい時期がきている。
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 しかし、どの分野でも、学問の蓄積はますます豊富になってゆき、技術はますます専門化してゆくから、狭いわくの中での充実のくふうにも限界があると思う。たとえば、高度に技術的に専門化した分野では、たとえ専門課程を三年にしても不充分であろう。会社にはいれば、実用に適した訓練をもう一度受けなければならないだろう。実際、大学はすぐに実用に結びつく知識をつめこむところではなかったはずである。
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 時代の圧力が、大学のこの性格をますますはっきりさせてきた。そうであるなら、むやみに先をいそぐ必要もない。どんな用途にも役立つ一般的な能力をゆっくり身につければよいわけだ。またこの能力は、大学院に進んだ学問の深い領域にはいろうとする人びとにもきっと役立つはずである。
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 イギリスでは、企業が競争して古典学部の卒業生を採用しているということだ。宣伝部門の仕事にとくに有能であることが認められたからである。(E・Pトムスン編『新しい左翼』福田ほか訳、岩波書店48頁)。私は西欧における古典学が日本の一般教育課程とまったく類似した位置にあると考えているわけではない。また、企業に役立つ人間をつくるために一般教育課程が必要だと主張するつもりもない。しかし、広い一般的な教養は、将来どんな分野で活動するにしても、欠くことのできない基礎として役立つことは疑いえない。人間はたいへん長生きをするようになった。むやみに先をいそがないで、ゆっくり勉強してほしい。(社会学)

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