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全体主義の毒

1972(昭和47)年 5月12日『日本海新聞』(共同通信社)
「言論の自由をめぐって」
 作田啓一

漏えい事件と川端氏の死

 沖縄返還の条件の一つが国民の目から隠されていたという事実が、外務省の公電漏えいで明らかになった。この公電の内容は、沖縄返還について国民が判断するさいの重要な資料である。その資料に極秘の印が押してあったということは、国民全体の意向を政府がまだ代表しえない段階において、政府が全体の名のもとに行動したことを意味する。社会党の追及はこのような全体の名の詐称を白日のもとに明らかにした。だがその結果、もしこうした形での追及が行なわれなかったなら男女間の愛の表現にすぎなかったそういう事柄が、犯罪として起訴されるにいたった。事務官の自己防衛のつたなさと記者の普通の功名心が、愛の表現から分離され、公務員法違反として処理された。象徴的な表現が許されるなら、政府による全体の詐称に対する攻撃が、プライベートな愛の全体性を破壊してしまったことになる。
 しかし、以下で私が述べようとしているのは、漏えい事件そのものや、かつての返還協定に密約なしと答えた政府首脳の言動についてではなく、川端康成の死についてである。漏えい事件と死とは何の関係もないように見えるが、私には全く無関係であるとは思えない。
 人の死後まもなく、その死についていろいろせんさくするのは、よい趣味とは言えない。しかし川端康成のような人の死は、ある種のせんさくへの関心をどうしてもひき起こす力をもっている。生理や心理、要するにパーソナルなものが死とどう結びついたかのせんさくは、私には興味がないし、またそういうせんさくをする能力もない。しかし、「ある種の」せんさく、その死がこの時代の何を象徴しているかのせんさくに、どうしても心が傾く人は多いだろう。私もその一人である。

未来への恐れということ

 戦後まもなく太宰治、田中英光、原民喜が自殺した。その後、著名な文士の自殺はなかった。三島由紀夫の死を自殺に数えるなら、約二十年間の空白を経て、再び三島、川端の死が起こった。この二人の死は太宰、田中、原の死と異質的である。太宰、田中、原の場合には、過去の苦悩の重荷が彼らを圧(お)しつぶした。
 三島、川端の場合には、むしろ先取りされた未来の陰鬱(いんうつ)なイメージが彼らを死に向かわせたように思われる。二人の死は、太宰、田中、原の死よりも、有島武郎と芥川龍之介の死にはるかに近い、という気がしてならない。有島と芥川は、近づいてくる新しい社会を恐れをもって期待していた。彼らは新しい社会の到来を望ましいとは思っていたが、自分はその社会の一員として幸福になれそうだ、とは思わなかった。結局のところ、彼らは近づいてくる未来に恐れをいだいていた。
 暴力革命を伴う社会の激変(ドラスチックな変化)への恐れは、戦後においては伊藤整の「我が秩序の認識」(「小説の認識」新潮文庫、昭和三十三年・所収)をもって終わる。この種の恐れは、もはや文人風の発想の貯蔵庫から失われた。したがって、三島のいだいた、そしておそらくは川端もいだいた未来への恐れは、別の種類の恐れである。三島は「文化防衛論」の中で、左右どちらかの全体主義により、文化の全体性が完全にそこなわれそうな-現にそこなわれつつあるというのが彼の診断であった-事態を憂えた。全体主義とは本来全体であるはずの文化を、一部の集団が全体の名のもとに機械的に断片化する体制のことである。全体主義によって蝕(むしば)まれつつある「全体としての文化」を、いまここで防衛しなければならない、というのが彼の主張であった。
 川端には社会学的あるいは政治学的エッセーがないので、彼のイデオロギーが何であったかは、私たちにはわからない。しかし川端もまた、都知事選挙運動という形で政治にかかわった。彼もまた、何ものかを何ものかから防衛しようとした。しかし、政治とは理想をもって現実と闘(たたか)うことではなく、理想をめざしながらも、現実をもって現実と闘うことである。政治とは常に毒をもって毒を制する作用にほかならない。もし三島の用語を適用することが許されるなら、「右の全体主義」をもって「左の全体主義」と闘った。

攻撃、防衛のためのことば

 「左の全体主義」に対して、一部の文人たちは根深い敵意をもってきたように思われる。戦後民主主義はことばを武器として闘う民主主義であった。ことばを攻撃や防衛の道具とすることは、表現の自由への要求と、どこか両立し難いところがある。私が山口県下の兵営にいた当時、何か弁解じみたことを言うと、古い兵や下士官に、「それがかばちいや」とどなられ、そしてしばしば殴(なぐ)られた。「かばち」とは、ほぼ「へりくつ」に相当する方言である。大学出とは「へりくつ」を言う特技をもつ人種だと、一般にみなされていた。いっさいの「かばち」を封じる集団に対して、私は深いいきどおりをいだいていたが、この集団の「かばち」への嫌悪(けんお)がわからないでもなかった。
 ことばというものは攻撃や防衛のための道具となる時、ことばのもつ「本質的な表現」の機能を失い、とても醜く聞こえるからである。議会などの討論をテレビで見て、攻撃や防衛のためだけに用いられることばの空(むな)しさを感じない人は少ないだろう。だからといって、私は議会が不要だとは毛頭思わないが、「言論の自由」はしばしば、「かばち」=へりくつを言う自由に通じる。この限定された意味での「言論の自由」を「表現の自由」と区別するため、かりに「論争の自由」と呼んでおこう。

民衆の心と一部文人の心

 軍隊で大学出の「かばち」を憎んだ民衆の心と、戦後民主主義の「論争の自由」を憎む一部文人の心とは、もちろん多くの点で違ってはいるが、しかし両者に共通するところもある。三島は、彼の理想とする文化共同体の存立にとっての必要条件として言論の絶対的な自由を挙(あ)げているが、彼の言う言論の自由は、むしろ「表現の自由」というべきものである。
 ことばを他者制御の道具としてではなく、心の自足的な表現それ自体として尊重しようという要求は、言論の自由への要求の枠(わく)の中にはいり切らず、また時としては「論争の自由」への要求と対立する。「表現の自由」と「論争の自由」との関係は非常に複雑であり、その関係をはっきりと定式化することは、いまの私にはできない。しかし、両者が調和し合うように感じられた戦後の一時期-もちろん当時もそうは感じない人もいたではあろうが-に比べると、今日は両者の対立のほうがむしろ鋭く感じられる時期であるように思われる。

制御から自滅への恐れも

 一般に、金や権力をもっている側は、相手を制御しようとするにさいして、めったに暴力を使用しない。もっとおだやかで効果的な方法を使用できるからである。同様に、彼らは論争用のことばの使用にも、それほど執着する必要はない。これに対して、勢力の弱い側は、攻撃や防衛の道具としてのことばを大事にせざるをえない。そしてこのことが、不幸にも「表現の自由」の側面への意図しない軽視を結果する。いわゆる「体制」側の方が、「表現の自由」により寛容でありうる立場にある。したがって、誇張すれば「表現の自由」に生命を賭(か)ける文人が、「右の全体主義」を相対的に小さな毒と受け取るとしても、それは理解しえないことではない。
 比較的小さな毒と思われるものをもって比較的大きいと思われる毒を制すること、それが政治の本質である。だが、小さな毒と思われたキノホルムがスモン病のような重い病気を、かえってひき起こすことがあるように、制しようとして用いた毒が、制御の目的である毒よりも強力に働いて自滅することがある。

毒の使用者にもつ効果

 私は三島や川端の場合がそうだと言うつもりはない。政治的な毒の功罪は、個人の生命の期間をこえた長い期間にわたって判定されるべきものだからである。しかし私たちは、毒を制するための毒の使用が使用者にとってもつ効果のことを、いつも念頭におく必要があるだろう。「左の全体主義」をもって「右の全体主義」を制しようとする場合も同じである。
 防衛しようとする「全体性」そのものが、「右の全体主義」によって蝕まれるよりも先に、自ら使用している「左の全体主義」の毒によってまず蝕まれてしまう危険もある。
 毒をもって毒を制するのではなく、さまざまの異なった分野において自由を求めている人びとが連合する道を、私たちは困難ではあるが模索(もさく)し続けてゆくほかはないであろう。
(京都大学教授)

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