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エッセイ集

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更新内容:つれづれなるままに 更新頻度:不定期 対象者 :みなさん
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記事一覧

短編小説 「筵」

目が覚めると、世界が変質していた。その直観だけがあった。 昨日は華金で、面白くもない残業をしたあと一人でしこたま呑んで帰り、そのままベッドで気を失った。 <もの>たちは、狭い1Kの部屋に、そのままで横たわっている。 今まで寝ていたベッドには脱ぎ捨てたシャツが紙くずのように転がり、 ローテーブルにはリモコンやら捨てていないチラシやらと一緒にチューハイの空き缶が3本佇んでいる。 こいつらは僕と違って勝手に持ち場に戻ったりしない。 ふむ。昨日飲みすぎたか。一人だというのに情けな

現代日本において郵便で通信をする話

近頃の20代にしては変わった趣味として、Twitterのフォロワーの何人かと文通をしている。 文通といっても頻度は数ヶ月に1回くらい。大体ポストカードを同封するので美術館に行ったあとが多い。気が向いたときに送ろうと思うが面倒くさがりなので先延ばしにしたりする。 手紙の良さは、形式性と現前性だと思っている。インターネットのDMで1秒でメッセージを送ることのできる友人にわざわざ手紙を送る意味はそこにあると思う。 正直、手紙に書いてある文章の内容はどうでもいいと思っている。僕

双極性障害の丸善療法について

最近丸善(書店)は精神衛生に良いと気がついた。 正確に言えば、たまにある精神状態のいくつかの悪化パターンのうちのひとつに効果的ということに気がついた。 双極性障害はほぼ治ったと公言しているけど、月に1回くらい心理的な要因では説明できない変な気分の変動がある。 ひとつは抑うつで、何も手がつかなくなって、失踪したくなる。別に死にたくはならないけど。 もうひとつは混合状態のようなもので、焦燥感と言葉と観念が頭に溢れる。僕がゔゔゔ~って呻いてブツブツ言いながら歩き回ってたらだいたい

遠巻きに、そっぽ向きながら、生あたたかく

ぼくは、医師であると同時に、患者だ。 高校まで、真面目一徹で通してきた。ガリ勉くんと言われながらも、いい大学に入ることができた。大学に入ってからも、今までの自分を信じて、真面目に全部頑張ろうとした。 大学は、全部真面目にやるには、広すぎた。徐々に息が切れ、力尽きた。人間が怖くなった。形のない悪意が視えるようになった。なにもできない期間と、なにかせずにはいられない期間が交互に来た。 そのころ、SNS経由で4歳上のお姉さんと仲良くなった。地理的にも離れたところに住んでいた。

眠られぬ夜のために

中学生のころから、NHKラジオ第一の「ラジオ深夜便」が好きだった。 23時に始まり、翌5時までの番組。最初はインタビュー番組、それから知識人による講座番組があり、往年のロックやジャズ・歌謡曲の特集番組、最後に著名人の語りがある。 すべて「深夜」のために、眠りたいのに眠られぬ人のために、生活の都合で眠らないひとのために作られている。時々おたよりを送ってくる高速道路を走る運送業の運転手に思いを馳せる。 そのころ、家族関係がだいぶごたごたしており、深夜に車で移動することが多かった

今は亡き感情を偲んで

僕は、日常的に人が死んでいく環境で生きている。ICUで死ぬ人もいれば一般病棟で死ぬ人もいるし、緩和ケア病棟で死んでいく人もいる。数日前に言葉を交わした人がもう帰らぬ人になっている。敵のいない戦場みたいだ。 この職場に来た当初は、人が死ぬたびにその人の生きてきた過程に思いを馳せたりしていた。どこで生まれどこで育ち誰と過ごし何を生きがいにしてきたのか。苦労もあっただろうし、蔑まれたこともあっただろう、その時一緒にいてくれた人はいただろうか。 でも、もうそんなことはしなくなって

居場所の、居場所性について

「自分が居てもいいんだ」と思える場所を見つけるのは、意外と難しい。 僕は、長らく居場所というものがあった時期が少なかったように思う。「自分が居てもいいんだ」という居場所がないのは、身の置きどころがないこと、帰る場所がないことになる。 「場」に居場所性を求められない人は、往々にして他者との関係性や、儀礼的行為にその代替を求めるように思う。特定の友達や恋人に依存する人、酒や煙草や賭博に依存する人。また昔の僕にとって「勉強をすること」「良い成績を取って褒められること」はもはや儀

僕と、彼の孤独癖について

短いエッセイなのだが、とても好きなものがある。 萩原朔太郎『僕の孤独癖について』。 萩原朔太郎は、大正〜昭和の詩人。ろくに知っているわけでも無いのだが、一応詩集は持っていて、「猫町」などは楽しく読んだ。(「猫町」はあまり詩らしくはないが…。) 「僕の孤独癖について」は、彼自身の少年期〜現在までの対人不安・強迫的なものの変遷を晩年に綴ったものだ。 青空文庫で公開されているものを少し引用してみよう。 こういう冒頭から始まる。いかにも引きこもっていそうな根暗な人間が書きそう

世界そのものに触れさせてくれ

いま、久しぶりにとても精神の調子が悪いので、文章を書くべきときであり、文章を書くべきでないとき。 別に具体的な自死の手段を考えているわけではないので精神科的に緊急性が高いわけではない。が、梅田の巨大コンクリートの森にいると、このままこの森に消えていってもいいかななどと考えていた。 僕の絶望はゆっくり襲ってくる。突然ビール瓶で後頭部を殴りつけるように。なにを言ってるかわからないかもしれないが、あいつはそういうやつだ。 離人って、経験しないとなかなかわからないかもしれない。

病んだ東大生は非効率なのか?

1年くらい前だった気がするが、「病んだ東大生を支援するよりそういう人を切って元気な学生を入れたほうがよい」という趣旨のツイートを見かけた。 ふと思い出したので、自分なりに反論してみようと思う。できるだけ感情的にならずに。 僕自身の自己紹介を少ししておくと、2015年に理三に入学し、大学2年で精神科に駆け込み、ごたごたしながら「シゾ(統合失調症)圏をベースにした社交不安障害+双極性障害」ということで大学4年のあるときを境にすべての講義や試験に行かなくなり、留年した。 2回目

第二外国語、はじめました:ラテン語

英語もろくにできないのに第二外国語をやるなという主張は認める。 大学での第二外国語はドイツ語だったが全部忘れた。Ich liebe dich.しか言えない。職場でワイセ、ゼク、ステるなどのもはや原型を留めていない和製ドイツ語の医療俗語を聞いて感傷に浸るくらい。 きっかけは中井久夫の本を読んでいたとき。彼は学生時代に英独仏の医学書を濫読し、ラテン語も古典ギリシャ語も詩とか読んでるタイプの恐ろしいひとで、意識的に・無意識的に避けてきたけど英語以外の言語でもやるかという気持ちに

医療者のスティグマについて

「医療者は聖職」なんていうが、ごく一部に聖人みたいな人がいるというだけで、大体は普通に普通の人間だと思う。清濁あるのです。 僕が医療者として医療者に実際に言われた言葉を紹介しよう。ちなみに僕は職場で自分のメンタルヘルスをカミングアウトしていない。 まあこんなもんです。諦めてます。人間なんてこんなもんです。「健常者」だと思われている世界で日々こういうことを言われながら愛想笑いをしています。 もちろん、特に精神疾患の人がより手間がかかることは認めつつもジャッジはせずに淡々と

祈りのかたち

先日、ふらっと神社に行く機会があった。別に祭りがあるわけでもない。特に大事な試験があるわけでもない。 その神社は、中規模なもので、境内は割と広く、なんでもない日ながら参拝客はまばらにいた。よく晴れた日だった。寄り道する気になったのは天気のせいだったかもしれない。 うちの家は代々浄土真宗だし、中学と高校はイエズス会系のカトリックだったので、神社での作法などあまりよく分かっていないが、通り一遍の所作で賽銭を入れ、二礼二拍手一礼。 そのあと、境内を散歩でもして帰ろうと思ったが