ジュリアス・シーザーの格言を考える

1.「人はみな自分の見たいものしかみようとしない」by ジュリアス・シーザー

かつての東京地検特捜部特捜部の誤認捜査に見られるように、どんなに論理的で頭がいい人間でも、一度抱いた思い込みや仮説によって築かれた偏見から逃れることは難しい。

だからこそ、ひとかどの人物は事実に対してどこまでも謙虚になることで、私心から距離を置き、逆説的に自らの夢や意思を大切にしたのかもしれない。

2.ビジネスの世界でも同じなのかもしれない。

今の経営判断の担い手は、デフレ時代の洗礼を受けた人間ばかり。

デフレ時代に一線にいすぎたせいか、その時に染み付いたデフレマインドに囚われ、シブチンな感がある。

そのせいなのか、人のコストが上がり続けるご時勢にもかかわらず、一方的な値下げを押しつけて下請を泣かせたり、自らの優越的地位を利用して下請けのノウハウをただ同然で買い叩く大企業の経営者や役員がまだおられる。

一般に上の立場の人間の周りにはイエスマンが多い。

ただでさえ、ご高齢によって頭が硬くなっているのに、それを諌める人間がいなくなると、自分の見識を過大評価してしまい、事実に対する謙虚さがなくなってしまう。

下請はもちろんだが、彼らに謝ってまわる現場管理職の方々も可哀想だ。

3.(1)だからこそ、そういう偉い立場の方は自らの思いや考えを抱きながらも、先代達が歩んでこられた道のりを胸に抱きながら、今の文脈と徹底的に向き合い、企業理念について考えぬくことが大切だと思う。

企業理念とは何のために経営するかという大義名分のこと。

通常、企業理念を謙虚に見つめれば、一方的な下請けいじめなんて発想は出ないはず。

(2)ローマ帝国は初期の共和制やシーザー・アウグストゥスの時代は謙虚な精神が宿っていたが、五賢帝以後から大衆の享楽性が際立つようになり、謙虚さもなくなっていく。

末期になると、傲慢になった大衆は帝国の危機を度々救った名将スティリコを異民族出身を理由に忌み嫌い、最後は政敵の諫言に惑わされた愚帝によりスティリコは大衆の敵として反逆罪で処刑された。

その後、ローマ帝国は異民族に今まで以上に蹂躙されまくり、滅亡の道へと進んでしまう。

謙虚さを忘れた傲慢な人間の愚かさは歴史でも示されている。

それだけにシーザーの冒頭の格言は重い。

(3)こんな時こそ大企業の立場のある方々は99.7%の中小零細に対して謙虚さの範をお示しになさるべきではないか。

腐っても元経済大国のトップに君臨する方々はうちらみたいな小企業の社長と違い、ある種公的な地位にあるわけだから。

それがこの国の経済を引っ張っていく者のノブレスオブリージュ(高貴なる責務)だと私は思うのですがいかがでしょうか?

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