権限なくして責任あり。教育の重要性

昨日、「警備ビジネスで読み解く日本」(田中智仁著、光文社新書)を読んだ。

警備員としての経験を生かした社会学的警備論ということで実務に携わっている人間にもそれなりに楽しめる内容だった。

警備の専門化と雑用係の位置づけ等その内容についていくつか述べたいのだが、1回では無理なので今回は警備業務の責任に関する項に限定して田中氏の主張に対する自分の意見を述べさせていただきたいと思う。

田中氏の主張は、かなり、ざっくりいうと貴重品運搬警備の現金輸送車が除外対象車両に該当しない等特別な権限は与えられていないのに、一定の場合に、社会通念や信頼の原則等を根拠として過失責任を負う場合がある。権限なくして責任あり。このような法治国家の枠外に置かれたとも取れるアンフェアな立場に置かれているのが警備員だというもの。

確かに田中氏の主張の結論そのものには賛成だ。警備員は半公的なポジションであるにもかかわらず、権限が一般人なみ。なのに何かあると、警察程じゃないにせよ責任を追求される。これは確かにアンフェアといえる。

ただ、裁判所が信頼の原則や社会通念を警備員の誤誘導の過失責任の根拠とする事自体は別に法治国家の論理を逸脱するものではなく、警備員を軽んじているものではないと思う。

法治国家とは憲法・法律に基づいて物事が進む国家というところ、その法律の言葉を解釈する際にどうしてもその根拠となる価値観が必要になる。国によってはそれが科学だったり、宗教だったり、道徳だったりする中で、日本の場合、それが社会通念という名の常識やその時代の空気だったりする(もちろん憲法の人権もね)。その社会通念によって信頼の原則が生まれ、それが田中氏が例に出した警備員の誤誘導に関する業務上過失致死傷判決の中の過失責任の根拠になったものに過ぎないから。

やはり、社会的にも警備員の仕事は責任が重いと認識されている、にもかかわらず、それに相応しい権限が付与されておらず、金銭的な評価も低いことが問題だと思うのである。

この辺を早くなんとかしないと、警備の人手不足は解決どころか深刻化の一途を辿るだろう。また仮に警備員を補充できても他の国では当たり前とされるこの著者がいうところの専門的な警備、自分の考える本来の警備を提供できる警備員は絶対的に不足するだろう。

ロボットがそのへんをすべてカバーしてくれればよいが、この前の新幹線殺人事件に見るように、現在の技術だけでは限界がある。警備を軽んじるのは自由だが、それで結局困るのは一般市民という事だと思う。

他にも言いたい事は山ほどあるが、そんな愚痴をいってもしゃーないので、自社としては、今ある状況を前提とした上で、責任を問われない体制を作るのが妥当と考える。

具体的には、身勝手な誘導を防止するため、警備員を選別し、その上で、法定教育・基本に忠実で現場に即した実務教育の徹底といったところだろう。

それが、質の向上にも繋がる。これもまたリスクをチャンスに変えるものといえる。







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