脳内転生旅行の終わり
会社の休憩時間、こんなツイートをした。
一見、何を言っているのだろうと思うだろう。
自分の人生は初めから自分の人生だ。他人のものでは無い。
とまで言われると、中には「本当に自分の人生か?」という疑問に答えあぐねる人もいるかもしれない。
少なくとも自分はそうだった。
妖怪「何者かにならなきゃいけないオバケ」
実績とはなんと輝かしいことか。
そう思っていた時期があった。
クイズ番組をよく見ていた頃「東大卒インテリ芸人」「漢検1級に何度も合格」など、わかりやすい肩書きが欲しいと焦がれていた。
高校生のうちに漢検英検数検ともに2級を取ったのは、その憧れに少しでも近づくためだったのかもしれない。
そんなわかりやすい肩書きは何も資格だけに留まらなかった。
ある時は漫画家になりたかった。
ある時は音楽家になりたかった。
ある時はアナウンサーになりたかった。
ある時は教師になりたかった。
ある時はSEになりたかった。
ある時は小説家になりたかった。
ある時は動画編集で食っていけないかと考えた。
(これらは筆者の当時の考えをそのまま写した事実です)
そうやって肩書きを手にすることが夢になっていた。
また、その肩書きは多ければ多いほどよいとも考えていた。
そんな感じで、自分の脳内には妖怪「何者かにならなきゃいけないオバケ」が長年憑依していた。
そのオバケのせいで、自分は何度も脳内転生旅行を行なっては、やってもいない業績を手にした時の自分を思い浮かべていた。
それが結局全て誇大妄想で終焉したのは言うまでもない。
虚像の永遠に恋をして
ピノキオピーさんの『きみもわるいひとでよかった』という楽曲の歌詞だ。
(素晴らしい原曲はコチラ)
時間は有限?当たり前だろう。
人はいつか必ず死ぬんだ。
そう心から思って生活している人はどれくらいいるのだろう。
本当に有限であることがわかってSNSを見漁っているのか。
本当に有限だと気づいてスマホゲームを電車でやっているのか。
この記事を書いている間も時間はすぎる。
働いていても、子育てをしていても、SNSを巡回していても、寝ていても、、、
そんなあまりにも儚い有限性に落ち度をつけて「仕方ない」と割りきれるほどのものではない量の決断を捨てることは、一体どれくらいの人ができるのだろうか。
少なくとも自分はできなかった。
何者かになろうと憧れを持っては泡のように消える。
でもそれがひとつ依存性のような快感だったのかもしれないと気づくと恐ろしかった。
何者かになっている空想の自分に恍惚として、現実は直視できていない状態。
それはもはや自分の人生ではないのだ。
そんな自分ではない自分をただ膨らませては壊す非生産活動の臨界みたいなことに時間を使っていいのか?
これが最近ぽっと出した最近のトレンド自問なのだ。
これが時間が永遠にある、我々が永遠に生きていられるのなら話は別だ。
永遠なのだから、何に時間を使っても良い。
逆説的に言えば価値がないということだ。
仕事しようが恋愛しようが哲学しようが。
永遠の中に閉じ込められているのだから、どんなに時間がかかることをしたって良い。
でも、残念ながら我々はいつか死ぬ。
死後の世界を信じている人もいるかもしれないが、少なくともこの世界をこの状態で生きることはもうできない。
その人生を時間を潰すためだけのスマホゲームやSNSで潰してしまっていいのだろうか?
それもまた人生
大学院を卒業し、親元を離れ、新社会人になると共に一人暮らしを始めた。
当然最初は慣れないことだらけだ。
仕事も中々板につかない。生活の方法も確立されていない。
どちらにも慣れるということに相当体力を消費した。
会社に入ったことで一定の働きをすればそれだけ自分の口座にお金が入る。
そしてそのお金で生活を賄い、QOLを上げるための買い物をしたり、小旅行を企てたりする。
そして暮らしも仕事も少し落ち着いてきた今、自分を俯瞰で見る余裕ができた今、ふと自分の人生について考えを寄せれたのである。
お金の使い道の責任が自分にある。
時間の使い道の責任が自分にある。
責任、という言葉を使うとイガイガしてしまうかもしれないが、「責任」を「自由」に変えてもらっても差し支えない。
お金の使い道の自由が自分にある。
時間の使い道の自由が自分にある。
そう思った時に、老人になった時に思う過去の自分をスマホゲームで時間を潰したあっさい思い出として昇華させたくない思いが込み上げてきた。
やりたいことをやろう。
やりたくないことを削ろう。
休む時はとことん休もう。
全部、本気で。
きっと、それが人生だ。
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JR町田駅近くのちょっとした広場みたいなところでは、22時を過ぎるとそこにスピーカーやらマイクやらを設置し、楽器の演奏を始めたり歌を歌っている人が数人いる。
帰り際にあまりによく見るものだから「何やってんだか」と思って横目で見ていたのだが、それもまた人生だ。
音楽は、世界に色を付ける効果がある。それと同時に周りに色を与える効果もある。
その色が好きだと思う人はそこに近寄る。
これがいわゆる「ムード」だ。
自分色が好きな人を、「私はこういう色です!」と発信することで受信者を増やし、マッチングした人が聞きにくる。
浅はかな話にも聞こえてくるが、もしかしたらこれもひとつの「孤独の紛らわせ」なのかと思うと、自分が家で見ているyoutube垂れ流しなんかと変わらない、いや、それ以上の価値があるものかもしれないとも思う。
もちろん街中で歌っている人の目的は分からない。もしかしたら目的なんてないのかもしれない。
でも、きっとスマホゲームや見飽きたyoutubeに時間を投じるよりも幸せではありそうだなと思うし
何より、それもまた人生、と思う。
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