のらりくらりと生きることに恐怖を覚え始める20代半ば

最近の行動の指針として「休日であっても家から出て散歩なり買い物なり外食なりする」がある。
理由は色々ある。
外に出ることで太陽光を浴びることが出来る。家で座っていたりゴロゴロする時間を減らすことで少しでも体力を使う。行ったことない場所に行き、小さな発見をする刺激のためetc.

生憎自分が住んでいる町田駅には、友達がいない。数ヶ月前まで北海道で大学院生をやっており、共に上京してきた数名の友が東京のあちこちに散らばっていたり、23区付近に住んでいる実家勢の会社の同期がいたりするだけだ。
この場所では、孤独を楽しめる必要がある。

孤独を楽しむ手段は山ほどある。今やコンテンツの巣窟と化したネットの世界だ。Youtubeやネトフリを見る。本を読む。ゲームをする。勉強をするのもありかもしれない。

最近は特にそうだが、おもしろいYoutubeの動画を見終えたり、時間つぶしのためのゲームをやり終えたりした時に、突然空っぽの時間ができる。
頭も回っていない。感情も特にない。
オンラインでスマブラをしていて、明らかに強い相手に勝った時だけ高揚感が込み上げる程度。

消費するコンテンツが映画とかだったら違うのかもしれないとも思うが、結局見終わったらそこにいるのは、オフィスチェアにどっかりと座って感情を失った自分なのではないか。

最近読んだ本(エッセイ)は、こんな言葉で締められている。

『離婚は、結婚より面白い。』

今までの生き方を振り返ると、自分は「予定調和」だったり「変わらない、普遍」を求めていた気がする。
だから、自分の思惑通りに言ったことに対して鼻息を荒げて自慢したり、思惑通りに行かないことに対して腹を立てていたりした。
時に、思惑通りに行かなかった時の感情の行き場が分からないことが多かった。
今だけでは解決しないことをとかく不安がっていた時もあった。

しかし、これではいけない。
いけないことはないかもしれないが、予定調和が続くと飽きが生じる。
なぜなら予定調和は、「予定調和だったぜ」これ以上の感情の起伏がないからだ。

予定調和を求める生活をしたからこそ、変化を恐れる傾向にある。
たとえば、「同じ品質のものなら安い方買った方が得じゃん」くらいの変化は全く問題ない。
今まで未経験のことをするというのは、どうしても腰が重くなる。
学生の頃「働きたくない」という理由だけで大学院に行ったのは、ある意味「大学生をやめて正社員として働く」という環境や立場の変化が怖かった節もある。

事実、波乱万丈の人生を送ってきたわけでもないので、変化には弱い方だと思う。弱いというか体力がない。

しかし、自分はどこかで波乱万丈の人生に憧れている。波乱万丈とまでいかなくても、数多の経験でできあがった完成体に近い人間を見た時の芸術性というか完全性というか、もっとカジュアルな言葉でいえば「余裕」に憧れる。

友達には「しらすって忙しそう」とよく言われる。実際その節はある。
特に大学生の頃は勉強も部活もバイトも人並みにやっていたし、それに加えて読書したりプログラミングの勉強をしたり動画編集をしたりスマブラ上手くなってみようと努力したりと、まるで空き時間を潰すように自分自身の時間を作っては費やしていた。

それで無限に時間を潰せて、且つそれで満足感や幸福感を得られ続けるなら問題はない。
今は、それを越える「寂しさ」という1点が行動の邪魔をする。

大学生になってから今社会人になるまで、友達と会話するというのは実に楽しかった。
研究室の同期、サークルの先輩や後輩、会社の同期。。。
人の考えや人生の1片を見れるだけで興味が湧いたし、予定調和を求めている自分より何倍もおもしろく充実した馬鹿話を聞いて笑うことはそれはそれは楽しい。

自分はそうやって他人の思考や人生を聞いて興味を持ったり笑ったりするけど、予定調和を求めた生活をした自分にそのベクトルで話せることがあるかと言われると疑問符が体を纏う。
それはなんだかインスタに載せた私生活が、あたかもその人の人生であるかのような錯覚と似ている。「なんであの人はこんなにキラキラしているんだ。。。」と心の奥では思っているかもしれない。

数年前このnoteではない自分のブログを立ち上げた時もぶつかるのはその壁だった。
「この凡夫に発信することなんてあるのか。。。?」

少し話の軸がズレたので戻そう。

今私が抱いている不安、恐怖は、「孤独」という言葉で8割説明できる。

孤独だからSNSを見て、羨望の眼差しが生まれてはまた孤独を再認識して、SNS以外で時間を潰そうとすると、潰れなかった隙間の時間でさえ孤独を感じてしまう。

そして今までの人生を振り返った時に、その孤独を打ち消すための最適解のひとつが「人と会うこと」だと感じている。
当たり前の結論だが、この孤独は多大なるコンテンツ消費で消えゆく幻想だと思っていた。
孤独を一時的に消す効果はコンテンツにはある。しかし、コンテンツが無くなると孤独は今まで貯めてた分だけ襲いかかる。まるで魔剤。カフェイン。

人と会うことはコンテンツの良さを瞬間的に超えることは無いかもしれない。それほどコンテンツの即効性は強い。
しかし、人と会うことによる寂しさへのメスの入れ方はコンテンツ消費と異なり持続性が高い。

コンテンツ消費のほとんどは対話ではない。
しかし対話によって得られる満足感は確実にどこかにある。
果たしてそれを承認欲求と呼ぶか、ストレス解消剤と呼ぶかは人次第だが、最近は人と会うこと、そして対話することに価値を見出し始めている。

部屋に籠っていては自分の人生は始まらない。
変化が苦手な私だが、この感情に対してメスを入れ、自分から人と会う機会を作るという変革を起こしていく。

そして、ちょっとでも鼻で笑ってもらえるような経験をしておとぎ話のようにばらまいていく。

ちょっと予定から外れた方が良い。
ちょっと矛盾を抱えていた方がおもしろい。
ちょっと疲れるくらいの経験が糧になる。

そう思った次の瞬間、家の洗濯機が洗濯終了したぞと主張を始める。

夜に洗濯は、普通はしない方がいい。

以上、とある本に影響されて血迷ったしらすでした。
にゃ〜ん


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