リアルが好き、地味な鬱とツイ廃の現実

散歩が趣味だ。歩いているだけでいい、というのは嘘かもしれないが、たまに出会う野生の動物、子供がギャン泣きする声、神社に行った時の砂利の上を歩く音、全てが生を感じさせる要因となる。

とは言いながら自分は電車移動の大半をツイッタに費やしているし、家に帰ればyoutubeを垂れ流ししている。
疲れた自分を労うでもない(そんなことすらできないときもある)行動で有限の時間を消費する。

ツイッタを見ている理由なんかない。本能だ。本能に従って、無機物を指で上下に揺らしているだけだ。
いま電車の車内にいる隣の人だってそうかもしれない。意味もなくツイッタで好きなアーティストの宣伝を待ったり、バズツイートにひたすらいいねしたり、炎上案件のリプ欄の荒れ具合を見てニヤついているかもしれない。
意味はあんまりない。いつか来るかもしれない朗報を待ち続けてツイッタを開いては、無機物が展開するインプレゾンビとバズ狙いのつまんな炎上ツイートで体力を無駄に浪費させられる。

本能というのは実に怖い。これだけツイッタを見て変に感情を揺さぶられることが体に良くないとわかっているのに、つい手が出てしまう。もっと実りある時間の過ごし方があると知っていながら、ありもしない情報収集のためにまたツイッタを開く。

そこに広がるは、きっと廃墟のような空間。過去に活躍していた廃屋と、手がつけられていない色褪せた看板、うじゃうじゃ住まう害虫。ただ、そこには実用的な何かが弱い光を放ってポツンと置いてあったりする。それをそんな空間で見つけた暁にはそれが成功体験として脳裏に焼き付く。また宝探しの始まりだ。

こんな状態でいるから、自分は慢性的に鬱なんだろうなと思いながら過ごしている。比較的健全な外面が、ツイッタの影響で狂気をごった煮にしている内面を何とか押し殺して過ごしている。友達といる時は元気なのに、職場で働いている時は平然としていられるのに、一人でいると気づけば体力が底を尽きている。

それでも、職場から家に帰った後できる限り早く寝る努力をしてからは、陰鬱な気分の時間も減少傾向にある。夜に考え事をするのは良くない。体力がない中の考え事は、自分を手癖で良くない方向へ誘導してしまう。深く考えているようで考えていない、負のスパイラルに陥ってしまう。

相変わらず家に帰ってからも仕事のことを考える時はある。しかし、それがツイッタを眺めているだけの時間より有益であると信じている。板が表示する文字より、現実が魅せる世界の方が好きだ。
だって有機的だから。

明日はどこを散歩しようか。
天気予報を眺めると曇り。
何とか雲がどいてくれはしないか。
お天道様にぶっきらぼうに祈ってみる。

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