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旅は博打。
ほんの小さなことにキレる男が我が父「ゆたか」だった。
立て付けの悪いドアが上手く閉まらない。床に物が落ちている。細かい掃除が出来ていない。とにかく些細なことでいちいち腹を立てるのだ。
JRも通っていない田舎町のさらに山奥で育つ私たち三人兄弟に、少しでも外の世界を見せてやろうと、両親は毎年夏のボーナスで家族旅行に連れて行ってくれた。
しかし、旅行といえば今でも、「怒る父」をセットで思い出す。外の世界を見せることが目的の旅行で、小さな家族の世界を必死で守っていた記憶が蘇る。三兄弟の真ん中の女子として生まれ、男たちより少しばかり周囲を慮る力を持っていた私は、普段から「子は鎹」を体現していた。旅行中はさらに注意して気を配り、怒り出す父をなだめる事に注力していた。
母は旅支度が遅いし、子は朝が弱いので、必ず前夜に下達された出発時間から一時間は押す。まず車に乗り込んだ瞬間から火消し役が始まるのだ。
ゆたかによって綿密に計画された旅行日程に狂いが出るとダメなのだ。前を走る車が遅いとダメ、タチの悪い後続車に少々煽られるとダメ。道も人も、混んでいると完全にアウト。何事もそうだが、熱いものを急激に冷ますのは危ない。すごい勢いで蒸発するかもしれないし、爆発するかもしれない。生ぬるい風でそ〜っと冷ますのがコツだ。
夏の旅行だから、とにかく熱い日差し、フロントガラスから見えるカッと晴れた青い空、キレたゆたかの横顔ばかり思い出す。
少し大きくなるとよく山に連れて行かれた。だけど、子どもに山の良さなんて分からない。「なぜ登るのか。そこに山があるから。」なんて、そんな言葉の意味はさっぱり分からないけれど、とにかく親が登るのだから続くしかない。弟は永遠に愚痴を吐き、癇癪を起こし全力で山を駆け上がる。兄は諦めてとにかく押し黙って歩く。私と母はそんな状況に乾いた笑いを浮かべるしかなく、自分の気持ちを押し殺しながらとにかく進む。ゆたかはとにかく黙って歩く。山頂に着いても、正直達成感を味わったことはなかったかもしれない。
ところがどっこい。大人になってから状況がひっくり返った。あの兄が、毎週末天気を見ながら百名山制覇に精を出し、ひとりグレートトラバースだ。山中で偶然出会った田中陽希とふたり並んだツーショットが送られてくる。
弟はいつの間にか、今時珍しいホワイト企業を4年勤めて退職し、茅葺職人になってしまった。どの家族旅行にもしっくりきていなかったのに、初めての社員旅行で訪れた白川郷に惚れてしまったらしい。
私はといえば、山も海も好きだけれど、そこまで本気で好きはない。山を登るのは良いけれど、滑るところが苦手なので降るのが嫌だ。ベタベタした海水に浸かりたくないので、海は見るだけが良い。街に沈む夕日が綺麗だと幸せ。平穏な日々の景色に幸せを感じる。長年父の怒りを鎮めてきたからかもしれない。
旅はいっとき日常を忘れる娯楽だが、子どもの将来にとてつもなく影響を与えるようだ。
どんな旅でも、旅は旅。
人生を変えてしまう博打に出るかは、あなた次第だ。
第39期 編集・ライター養成講座「課題:旅」より。
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